佐賀バイブルチャーチの入江喜久雄牧師のブログ

佐賀市鍋島へ引っ越しブログを再び始めました。よろしくお願いします。

希望・死に対する勝利2

暑い日の教会近くの交差点、「ワシワシ」とクマゼミが泣いていました

教会開拓1周年記念礼拝の時に飾られた美しい花。



実存主義者、哲学者のハイデッカーが「人間は死へと向かう存在である」と絶望の言葉を残したが、あるキリスト者の医師は「死を考えることによってはじめて真実の生を考えることができる」と語った。それは死をはるかに凌駕する復活を言うのです。

 

1.死は自然ではなく異常です。

「ツクツクボーシ、ツクツクボーシ。・・・ジーツ」と刻みながら鳴くセミ、その死体を見て涙を流して泣く人はいないと思います。ある人は元気な時「死は怖くはない」と、またある人は「無になる」「死は自然、運命だ。あらがっても仕方がない」と言います。この自然死の考え方に対して「死」は異常なのだと小畑進師は異をとなえるのです。

「けれども、はたして『死』は言われるように『自然』のこと、不問の事だったのでしょうか。人間は、太陽が朝のぼり、夕べには沈むの見ても、少しも異としないのに、人が生まれて死ぬ時には、あるべからざることと感じ、とりかえしのつかない苦痛を覚えるのはどうしてでしょう。この苦痛は、本来死ぬべからざるものが死ぬということの、あらわれなのではありませんか。死が異常であることのしるしなのではありませんか」(東京基督教大学教授。小畑進師「キリスト教慶弔学辞典」p219)三人称の死に直面しても「死」に対して恐れを持たないのに二人称または一人称、自分の死に直面すると平常心だった時と違い、たちまち恐怖を自覚するのはどうしてでしょうか。自分が病気になったり、怪我したりすると「ひょとすると死んでしまうかも」と心に苦痛を覚えるのはどうしてでしょうか。私の母は小学校6年生の時、「がん」で48歳の若さで4人の子どもと夫を残して「名古屋ガンセンター」の個室で息を引き取りました。そこで全員、涙で泣き崩れたのを今も鮮明に覚えています。「なぜ母は死んだのか」と問い続けても答えは出ませんでした。がん告知を受けたある患者が「なぜ私だけがこんな苦しい目にあうのか」と気が狂わんばかりになりました。このように死は「自然よ」と言い切れないのです。「日本人は、明るい面、あるいは華やかな面のみに注意を向け、暗い面から目をそむけるという傾向がある。つまりきちんとしたかたちで死と対決しようとせず、どちらかといえば、逃げようとする」(自治医大教授。平山正美師「死生学とはなにか」p322)

 

 2.死とは何か

朝、花を咲かせても 移ろい 夕べには しおれて枯れています。私たちはあなたの御怒りによって消え失せ あなたの憤りにおじまどいます。あなたは私たちの咎(とが)を御前に 私たちの秘め事を 御顔の光の中に置かれます。私たちのすべての日は あなたの激しい怒りの中に消え去り 私たちは 自分の齢(よわい)を一息のように終わらせます。私たちの齢(よわい)は70年。健やかであっても80年。そのほとんどは 労苦とわざわいです。瞬く間に時は過ぎ 私たちは飛び去るのです詩篇90篇6-10節。

朝露のように短い一生で「私たちの咎(とが)」というのは「すべての人間の罪」を言い、それは聖なる神を認めない、聖なる神様と交わらないで自分中心に生きることを言います。この神様への背きの罪が招いた結果として死があるのです。

罪の報酬は死です」と聖書は語り、同時に「死」を超える「永遠のいのち」を示します。

 

3.死の解決イエスキリスト

しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです

ローマ人への手紙6章23節。

キリストにある永遠のいのちとはキリストの復活の命なのです。それは死人から肉体の復活をした主イエスキリストを信じる信仰によってよみがえらされ、与えられたいのちを言うのです。イエス・キリストだけが十字架で死なれ墓に葬られて3日後に復活しました。キリストは言われました。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。ヨハネ11章25節。あなたが死の恐れから解放されるために次の事をして下さい。第一に、聖なる神様に対して自分中心の罪を悲しみ告白し、第二にあなたの罪の身代わりとして十字架で血を流しつくし死なれ復活したキリストを信じて下さい。人は全員死にますが、復活の主を信じ続けた人は死後、天国で、すなわちキリストの100%慰めを受けて生きるのです。この永遠の命を自分自身が得てこそ、喜んで生きて行けるのです。

新幹線の新大阪駅から淀川方面へ目を向けると淀川キリスト教病院がある。そこに直腸癌で入院された方の手記を紹介します。

「発病以来私の心を占領していた最大の課題は、おしせまった自分の死の問題でした。夜半になると、ふっと目が覚めては死の不安におそわれ、いてもたってもいられぬ恐怖に、まんじりともしませんでした。死についての教えを手あたりしだい読みあさりました、しかしどんな名論卓越も、深遠な思想も、要するにその人の死についての単なる考えや想像や願望でしかなく、死の事実そのものではありません。死のさしせまっている私にとっては、何の力にも慰めにもなりません。

 死とはいったい何なのか?死後はどうなるのか?死を経験した者は無数にあるが、死者はもはや私に死を語ることはできない。実際に死を経験して、しかも私に死を語ってくれる者はいないか?あった! 聖書を読むと、まさにその資格を持った方がある。すなわちキリストである。キリストは私のために十字架にかかって死なれた。しかも現実によみがえり、今も私と共においでになり、語りかけていて下さる。キリストの言葉こそ信用できる。キリストだけが信頼できる唯一のお方である。死も死後の世界も私にはわからない。しかし死の勝利者、私の罪のあがない主、イエス様が私と共にいて下さる以上心配はない。万事お任せして主におすがりするばかりである。私にはこれ以外の道はなく、しかもこれほど確かな道はない」(柏木哲夫師「病める心の理解」pp200‐201)その後、神様に導かれたみ言葉は詩篇23篇であった。

主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ いこいのみぎわに伴われます。主はわたしのたましいを生き返らせ 御名のゆえに 私を義の道に導かれます。たとえ 死の陰の谷を歩むとしても 私はわざわいを恐れません。 あなたがともにおられますから あなたのむちとあなたの杖 それが私の慰めです。詩篇23:1~4

 

希望・死に対する勝利1.

 

背振山近くの道の駅から見た広い佐賀平野

イエス・キリストはアフリカの希望です。」と語ったのはアフリカ56か国中、最貧国で国民の14%がHIVに感染し、死者が多いモザンビーク出身の青年でした。しかもこの国のクリスチャン人口は48%というのです。私はこの方と2007年に福岡で会いました。

毎日、死に直面している国の人々がなぜ、イエスキリストへの希望を持っているのでしょうか。それは死に打ち勝ち肉体をもって復活したキリストを信じる者がキリストにある復活のいのちを今生きることが出来るからです。

たとえ死の陰の谷を歩むとしても 私はわざわいを恐れません。 あなたがともにおられますから あなたのむちとあなたの杖 それが私の慰めです。詩篇23篇4節。

1.死は自然ではない

人は元気な時「死は怖くはない」また「死んだら無」「死は自然だ」と言います。しかし、自分が病気になったり、怪我をしたりすると「ひょっとすると死んでしまうかも」と心に苦痛を覚えるのではないでしょうか。ガン告知を受けたある患者が「なぜ私だけがこんな苦しい目にあうのか」と言い、気が狂わんばかりになられました。だから「死の苦痛は自然なのではなく異常であることのしるしなのです。」それが「死の陰の谷を歩むとしても」に凝縮されています。この「歩むとしても」は動作が完了していない状態です。言い換えれば今も死の陰の谷を歩き続けているのです。これが人間の現実なのです。それは創造神、命を与えた神を否定し自分中心に生きる人間から来ています。これを聖書は罪と言い「罪の報酬は死です」と語ります。

2.キリストにある復活の命

また同時に「しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」と死の解決を聖書は語るのです。キリストにある「永遠のいのち」とは「霊魂不滅、地上の命の延長のようなものではなく、まったく新しい命なのです。」それは主イエスキリストを信じる信仰によってよみがえらされ、与えられるいのちを言うのです。この復活のキリストを冒頭の詩人は「あなた」と呼び「私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから」と喜びの声をあげます。 たとえ「死の陰の谷を歩み」続けているとしても、自分一人ではなく復活したキリストが、自分と一体となって「ともにおられる」ので「私はわざわいを恐れません」と語っています。この「恐れません」も動作が完了していないのです。つまりキリストがおられるので「恐れない」が続いているのです。

3.希望ある人生

人はたとえ死の痛みを覚えたとしてもキリストへの信仰があれば、神様は一緒におられるので恐れないで生きていけるのです。「キリストは自ら 十字架の上で 私たちの罪をその身に負われました」そして3日後に死者の中から新しい肉体の復活を遂げ生きておられる唯一の方です。このキリストは、罪を悔い改めてキリストを信じる者と共に生き、死ぬ時、死後も共に生きてくださるのです。

私が福岡で牧師をしていた時、69歳で洗礼を受け77歳で天に召された税理士の方がおられました。彼は「キリストが私の罪のために、十字架にかかられたこと、それが事実であり、そのために現に私が生かされており、これからも永久にいかされるであろう、そして天の御国で「義の栄冠(天での報い)」を受けるという以外に価値のあることは何もない」と言いました。あなたもキリストを求める人となりましょう。

ひとりぼっちじゃない

佐賀の素晴らしさ。早朝の鍋島2丁目交差点

 

 

「助けて」「さびしい」と素直に言えない社会が孤立を生み出していく。言ったとしても

心底聞いてくれる人が少ないだけでなく根本的な孤独の解決策がない。友達、家族と「わいわいがやがや」している時ですら「ぼっち」を体験します。なぜ、この解決策はないのでしょうか。それは人間自身が不完全で、「義人はいない。一人もいない。」ローマ3:10だからです。衣食住がなければ生きていけません。しかし衣食住だけでは心は満たされません。心の孤独を解決しようと色々な情報を見たり聞いたりしますが、満たされず「もっと、もっと」と飽くなき欲望が続きます。

 

ところが孤独を根本的に解決して下さる方がおられるのです。その方は神が人となられたイエスキリストです。クリスマスに人として生まれ、AD30年4月7日(金)15時ごろ、エルサレム近くのゴルゴダの丘でイエスキリストは無実にもかかわらず十字架で死なれました。その直前、隣で十字架刑を受けていた犯罪人が自分の罪を悔い改めて「エス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」と語った時、イエス様は「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイス(天の御国)にいます」(ルカ23:42-43)と確約されました。ここに全人類の救いがあります。犯罪人が信仰告白した「今日」とは、まだ地上に生きている時であり、また彼がその日の内に息を引き取り死んだ後のことも現わしています。この事実からキリストは犯罪人が生きている時も死んだ後も共におられるのです。

ではなぜ、イエス様は無実なのに十字架で死なれ復活しなければならなかったのでしょうか。それは、犯罪人とすべての人の罪の身代わりとなられ、神の罪のさばきを身に引き受けたからです。「キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした」(1ペテロ3:18)

この方を信仰する人には生きている今も死んだ後もキリストはともに生きて下さるのです。

このキリストを信仰した米国の第25代大統領マッキンレー氏は平安のうちに息を引き取りました。大統領が凶刃に倒れた時、「『主よ。いよいよ近づかん、上る道は十字架の』と小声で賛美歌を歌い『これが私の絶えざる祈りであった』と言い添えた」と侍医マン博士は伝えました。彼は不慮の災いにもかかわらず、息を引き取る時に「主よ」とキリストを呼び、賛美歌を歌い信仰を告白したのは、主キリストが彼ともに生きておられたからなのです。

 

 

「心の渇きを満たすキリスト」ヨハネ7:37-44 牧師入江喜久雄

佐賀市鍋島の田んぼは麦の刈り入れの後、早くも田植えが終わりました。

 

 阿蘇の白川水源で透き通った湧き水を飲んだ時、渇いたのどが潤った思い出があります。さて、心の渇きは何で潤されるのでしょうか。

第一に、キリストはだれでも渇いているなら、」と言われました。

これはどのような意味でしょうか。「リフェレシュされたい。支えられたい。強められたい」と言う霊的な渇きです。それは「いつも心の中に起こる切なる願い」なのです。この心の渇きを満たそうと、人は人との出会いを求めたり、地位、お金などを求めたりしますが、これらは良いものですが心の渇き満たすものではなく、渇きは増すばかりなのです。

 

第二に、キリストは「わたしのもとに来て飲みなさい」と人を招きました。

このお方は「このお方がご自分の民をその罪からお救いになるのです」マタイ1:21とあるように人の罪からの救い主なのです。罪とは人が天と地を創造され、生きておられる神様と断絶している状態です。その結果、人は「はあらゆる不義、悪、貪欲、悪意に満ち、ねたみ、殺意、争い、あざむき、悪だくみにまみれています。また彼らは陰口を言い、人を中傷し、神を憎み、人をあなどり、高ぶり、大言壮語し、悪事をたくらみ、親にさからい、浅はかで、不誠実で、情け知らずで、無慈悲です。彼らは、そのような行いをする者たちが死に値するという神の定めを知っていながら、自らそれを行っているだけでなく、それを行う者たちに同意もしているのです」ローマ1:29-32。この人間を救うために来られたのがイエス・キリストなのです。この方は人を救うために全人類の罪を身に引き受けて身代わりとなって十字架で死なれたのです。十字架上でイエス・キリストは「父よ。彼らをおゆるしください」ルカ23:34叫びました。これは父なる神様に対してすべての人の罪の身代わりとなってわたし自身が十字架で償うので、人の罪をゆるしてくださいとの意味なのです。しかし、その日を含んで三日後、死者の中から肉体の復活をとげて罪のゆるしを完成したのです。

 

 星野富弘さん(現在、口に筆をくわえてすばらしい詩画を描き、群馬県に富弘美術館を開いている)は群馬県の中学校に体育教師として赴任しました。クラブ活動の鉄棒指導中、誤って墜落、頸椎損傷を負い、以来、手足の自由を失いました。病院生活の中で、キリストに出会ったのです。その時の心を次のように言っています。

「私は自分がどこに向かっていくのか、何に向かっていけばよいのかわからなかった。その不安が、まったく知らない人のいる泌尿器科に移ってさらに大きくなり、おしつぶされそうになりながら私は心のよりどころを求めていた。そんな私の耳もとを時々、風のようにささやいていく言葉があった。『労する者、重荷を負う者、我に来たれ』それは、郷里の家の裏の墓地に立っていた白い十字架にかかれてあった言葉だった。不思議なほど覚えていたその言葉を、おそるおそる開いた聖書の中にみつけたとき、私がまだ健康で、なにも知らないで飛び回っていた頃からすでに、私にこの言葉を与えてくれていた神様のこころを知ったような気がした。

キリストの御言葉『すべて、疲れた人、重荷を負っている人、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』マタイ11:28

 この神の言葉にしたがってみたいと思った。クリスチャンといえる資格は何も持っていない私だけれど、『来い』というこの人の近くにいきたいと思った。」「愛、深き淵より」pp116-117

 

エスキリストは第三に「来て飲みなさい」

「その人の心の奥底から生ける水の川が流れ出るようになる。」と言われました。

ヨハネ7:38

「飲みなさい」とは「キリスト」を信じなさいという現在命令形です。それほど緊急性があります。人が自分の罪を神の御前で言い表し、心にイエスキリストを自分の罪からの救い主と信じるなら救われるのです。そして渇いた「心の欲望」から「生ける水の川」すなわち「ゆるし、平和、喜び」が流れ出るようになるのです。

この事を主の感謝し、「だれでも渇いているならわたしのもとに来なさい」とイエス様が言われているように、イエスキリストのもとに行きましょう。そのためにどうぞ、佐賀バイブルチャーチの礼拝へご出席ください。あなたを歓迎します。

安らかに導く神

佐賀の東背振IC近くで美しい河川に出会いすがすがしい気持ちになりました。

 

 皆さま、お元気ですか。聖書に記されている神様は素晴らしい神です。その一つを紹介させていただきます。

詩篇78:52-53a「神は ご自分の民を羊の群れのように連れ出し 家畜の群れのように 荒野の中を連れていかれた。神が安らかに導かれたので 彼らは恐れなかった

聖書の神様は遠く宇宙の果てからながめておられる神様ではなく、神の民を愛し荒野まで来られて愛し危険から守り約束の地へと導く神様です。荒野とは植物があまり生育せず、人がすまず、荒れ果てた地です。恐れを感じさせる広大な地で獣がうろついています。今は「荒野」のように危険な殺伐とした世界です。そのただ中で神を信仰して生きる人をあらゆる危険から守り、約束の地まで導くお方なのです。あなたの人生がたとえ「荒野」のようであったとしても、そこに神は雨を降らせ、水源を備え、実のり豊かな地に変える神様がおられることを知ってください。「必ず、わたしは荒野に道を、荒れ地に川を設ける。」イザヤ40:19 あなたを苦しみの中でも安らぎを与えてくださるのです。日曜日、ご一緒に、この神様を知りましょう。10時半からの礼拝はクリスチャンでなくても誰でもご出席出来ますので、ぜひいらして下さい。あなたを歓迎します。

 

「信じることは良い事だ」より「誰を信仰するのか」が重要です。

2023年GWに、この大切なテーマを考えましょう。そのために神の言葉、真理である聖書から答えを見出しましょう。

  • 1.「平安があなたがたにあるように」

これは復活のキリストがいるという「一切の恐れを取り除き、内なる安定」を意味していました。どのような環境でも与えられる喜びは死から復活したキリストです。環境、複雑な人間関係に生きていても、揺るがない平安、それが、このみ言葉でした。主は驚く弟子たちに証拠として「手と脇腹を彼らに示された」のでした。十字架で釘付けされた両手には生々しい傷跡がくっきり見えました。脇腹は槍で刺された時、水と血が流れだした。19:34 その傷口は生々しいものでした。

2.  トマスの呼びさまされた信仰


12 弟子の一人、双子であったトマスはその場にいなかった。ヨハネ20:25 ほかの弟子たちは主を見 たと言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、 その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言いました。トマスは懐疑的で心 は固くなりなり、10 人の弟子たちから離れ、明確に信仰を否定するほどでしたが、同時にここで彼は信仰の不安を抱えていました。結局のところ、キリストの「手の釘の跡、 脇腹の跡」を見なければ主の復活を信じない。」言い換えればこの点が解決されれば、トマ スの信仰は本物になるのでした。さて、このトマスの言葉を主は聞いていました。20:26「8 日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられてい たが、イエスがやって来て、彼らの真ん中に立ち『平安があなた方にあるように』」と言わ れた。10 人は喜びに包まれた。もう一人のトマスの目の前に主イエスキリストは現れ最も 重要なみ言葉をお語りになりました。それはトマスの信仰を揺り動かして堅固な信仰にす るためでした。「トマスは単に信ずるのに遅く、気難しかったばかりでなく、また頑なであ った」フランス宗教改革者ジャヤン・カルバン。その解決は何でしょうか。27 節の御言葉 だけです。十字架と復活です。彼の信仰を滅ぼさないために、強い継続命令形で「あなたの指を ここに当て続けなさい」と言われました。「わたしの手を見なさい」は無理に一度確かに見て は直ちに従うべき命令形です。「あなたの指をここに伸ばし続けて、直ちに脇腹に入れなさい」と続けて 命令形を主は出された。このみことばだけが信仰を奮い立たせる唯一の道だった。主は必死だった。「 信じない者ではなく信じる者になりなさい」ここには証拠があっての信仰があります。証拠 もない信仰は信仰ではありません。「信じることは良いことだ」と人は言いますが、何を信 じるかがない。しかしここでは明確な 20:27 です。それは何を意味しているのでしょうか。 トマスと私たちの罪のために主は両手を刺し通され、釘打たれ、十字架上で脇腹は兵士の槍 で刺された。しかし主は死者から復活された。
トマスは目の前で語るイエス、傷跡を見せてくださったイエス様に対して「私の主、私の 神」と告白した。「私の」は主を個人的に信仰する信仰の言葉です。私の主は天と地の主権 者です。マタイ 28:18「エスは近づいて来て、彼らにこう言われた。『わたしには天にお いても地においても、すべての権威が与えられています』」 不信仰な心を罪から救い出す 唯一のお方イエスキリスト。「私の神」はトマスの 1 週間前の言動を知って答えてくださっ たイエスキリストこそ神であるとの信仰告白です。現在も未来も、時空を超えて、いかなる 状態からでも救い出す神、全地全能の神と告白し主イエスに答えたのでした。同様にあなた、わたしは主イエスにどのような信仰告白で答えますか。

3.「見ないで信じる人たちは幸いですヨハネ 20:29b

 

その後、主イエスはトマスとの会話を終わらせなかった。主イエスは彼に言われた。
あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」イ エスキリストを「私の主、私の神」と信じるとは信頼です。「やればできる」と言う自 己中心、人間中心には限界があります。そこには根拠がないからです。生ける復活の主 なる神という根拠を信じるのです。そこに人生の本当の道が開かれていくのです。
   単なる知的同意ではありません。
悪魔も神を信じています。ヤコブ 2:19「あなたは、神は唯一だと信じています。
   主の復活の事実、証拠と関係づけることが信仰です。
それが本当の信仰です。自己中心の罪を神様の御前で悔い改めて、一人ひとりの罪を 身に引き受けて十字架でただ一度死なれ、三日後に死に勝利したキリストのみを信じ、 主を心に受け入れるのです。
たとえばフランス料理を見ただけでは自分の糧となりません。食べて初めて美味し いと言い肉体の糧とします。同様に、「神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対 する信仰使徒 20:21。罪を告白して自分の心に主を受け入れることによって救われ るのです。ローマ 10:10。フランス宗教改革者のジャン・カルバンは「ローマ・カト リック教会は、キリストの神性、三位一体の神、贖罪を教えてくれたが、どのようにし てその贖罪を自分のものとするかを教えてくれなかった」と言っています。 キリスト のみを信頼するのです。神と共なるいのちのために、ただ復活のキリストだけに信頼し ます。自分の生活の中にキリストを受け入れることによってキリストにおいて自分の 魂の糧と力を見出すのです。復活のキリストへの信仰に根差していた第 25 代アメリカ合衆国大統領、クリスチャンであったウイリアム・マッキンレーが 暗殺された時、彼に安らぎを与えたのは息を引き取ろうとしている大統領が小声で「主よ。いよいよ近づかん。」賛美歌 320「 上る道は十字架の」だった。「これが私のたえざる祈りであった」と大統領に仕えた医者マン博士は伝えた。死を恐れず勝利した主イエスキリストと出会う歌だった。 

佐賀、鍋島藩主の鍋島直正と鍋島直大に仕えた家老村田(むらた)若狭守政矩(わかさのかみ まさのり)の信仰告白の経緯

 読者の皆様、いかがお過ごしでしょうか。桜開花のお知らせが続いています。

 

佐賀から見た有明海の干潟です。


さて、以下の文章を箇条書きで記させて頂きます。

1587年秀吉がキリシタン宣教師追放令発布。1614年家康がキリシタン大追放令を発布。 

1853年 ペリー総督率いる米国艦隊浦賀に来航

1854年安政元年)3月日米和親条約 10月日英和親条約締結。米国艦隊浦賀に来航

    9月英国東洋艦隊が長崎に来港。長崎の出島にて英国と交渉にあたった人物は長崎奉行の水野忠徳、永井尚志だった。丁度その頃、 佐賀藩家老(大名・小名の家臣の最上位に位し、家臣を統率した者)村田(むらた)若狭守政矩(わかさのかみ まさのり)は長崎に来ていた。

1859年(安政6年) プロテスタント宣教師の来日

米国のリギンズとウィリアムズ宣教師(聖公会)が長崎、米国ヘボン宣教師(長老会)が神奈川、米国S.Rブランン宣教師(オランダ改革派)が神奈川、オランダ国フルベッキ宣教師(鍋島藩が幕末、長崎に設けた藩校・致遠館で教育にあたった。後に東京大学設立に係わる)村田若狭守の家臣が長崎湾の波間に漂う小さな小包を拾い上げ英語の聖書を発見、その英語の聖書に関心をもった村田若狭守はフルベッキ宣教師の存在を知り、3人の家臣を長崎に送り込みフルベッキに「聖書を教えてほしい」と懇願。聖書の学びは英訳聖書とオランダ語訳聖書と2種類の漢訳聖書をテキストに行われ、約4年間にわたる研修期間を経る。

1866年(慶応2年)

村田若狭守政矩は5月14日に初めてフルベッキ宣教師に会い、語った

「私は長い間、心の中にあなたを知り、語り合えるのを夢見ていた。神の摂理により、今日、実現したのは大変な幸せなことである」聖書を読んだ印象をこう語った。「私が初めて、イエス・キリストの品性と事業を読んだ時の感激は言葉に表せない。かくのごとき人物

を見たことも聞いたことも想像したこともなかった。彼の品性と生きざまに私の心はとりこになった」村田若狭守と実弟の綾部三左衛門は5月20日(主日、夕方)受洗。

藩主 鍋島直大は村田若狭守が家老職を退き引退するという形で二人の受洗を治める。<聖書を読んだサムライたち 守部喜雅著>

 一方、フルベッキ宣教師は彼らの回心が真実のものだったことの証拠として「これら二人の武士がその悲惨な過去の生活の暗黒と罪の状態について告白したこと、また救い主を信じて得た平和、救い主を愛し、その救い主の贖罪の愛をうけた者として感ずる歓喜について彼らが告白した」をあげている。<日本プロテスタント教会史(上)小野静雄>

1867年大政奉還  1868年明治維新

1872年村田若狭守召天 長崎のフルベッキ宣教師は宣教師仲間と日本人伝道者を

佐賀へ派遣し宣教を継続した。1873年2月24日キリシタン禁令高札撤去

これを読まれた方へ この家老が求めた救い主イエスキリストによる救いを体験していただきたいのです。キリストは言われた。「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」聖書。ご感想、ご意見を

お聞かせください。(連絡先:sagabiblechurch.com佐賀バイブルチャーチ入江 喜久雄)