それは、この本には人間が生きて行くために必要な事柄の5つが書かれているからです。
さて、小説「塩狩峠」(平成23年6月15日90刷。新潮文庫)の内容に入りましょう。
永野信夫(長野政雄)は母キリスト者のもとで育ちましたが、姑のきつい態度によって母は家を出て行かなければなりませんでした。その後、信夫は父と厳格な祖母によって育てられたが、小学生の時、祖母が他界したため、母と妹が東京本郷の家に戻ってきました。
その後永野は成人し裁判所で働きましたが、幼馴染の吉川の勧めで札幌の鉄道員となりました。その吉川の妹がふじ子でした。ふじ子は肺病で片足を引きづって生活していましたが美しい人格でした。25歳を過ぎた頃、上司の名倉から縁談が信夫にありました。その相手は上司の名倉の娘でしたが、信夫はふじ子の人格とその言動に惹かれその縁談を断り、ふじ子と結婚する決断をします。
以下、作家の三浦綾子さんが「塩狩峠」で問題提起している主要な箇所を記してみました。
- 人間の心
「吉川君。ぼくは性欲に関する限り、決して一生自由人となることができないような気がする。幾度か、性的なあやまちを犯しそうな不安すら感ずる。君、どうか、ぼくを笑わないでくれ。そして、ぼくにこのことから自由になる道をおしえてくれないだろうか」pp158-159
性欲だけではなく、汚れた欲望からの自由を正面から取りあげています。
問:あなたは自分で自分をコントロールできますか
聖書の答え:できません。
「内側から、人の心の中から、悪い考えが出てきます。みだらな行い、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪行、あざむき、好色、ねたみ、ののしり、高慢、おろかさで、これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」(マルコ7:21-23)
問:ではどうすれば自分を正しくできるのですか。
聖書:「人はだれでも、律法を行うことによっては神の前に義とみとめられないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。 しかし、今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。」ローマ3:20~22
- 原罪
「人間って恐ろしいものね。わたしだって時と場合によっては、ずい分やさしくもなるけれど、自分でもいやにあるほど意地悪にもなるわ」p185
「人間てね、その時その時で、自分でも思いがけないような人間に、変わってしまうこともあるのです」p187
「だれにも知られない、奥深い心の中でこそ、ほんとうに罪というものが育つのではないだろうか」p190
「それは勤勉で自制的な、そして向上しようとする自分の姿ではなく、どこまでも堕ちて行きたいような、いく分ふてぶてしい、すさんだもう一人の自分の姿であった」p264
「わたくしこそ、ほんとうに助けてもらわなければならない罪人だったのです。そして、あのよきサマリヤ人は、実に神のひとり子イエス・キリストであったと気がついたのです。それなのに、わたしくしは傲慢にも、神の子の地位に自分を置き、友人を見下していたのでした。いかに神を認めないということが、大いなる罪であるかをわたくしは体験しました」
PP364‐365.
多くの人が見過ごす原罪を明確に描いています。
問:原罪とは。罪の普遍性とは。
聖書の答え:「私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって
行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた」イザヤ53:6.
「私たちはみな、汚れた者のようになり、その義はみな、不潔な衣のようです。
私たちはみな、木の葉のように枯れ、その咎(とが)は風のように私たちを
吹きあげます」イザヤ64:6
問:あなたの心はどうですか。
人を憎んだり、見下したりする心を直視したことがありますか
その心を変えて下さる聖書のみ言葉
聖書:
「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」マタイ11章28節。
「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」1ヨハネ1章7節。
「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」2コリント5章17節。
- 自分の存在
「(あの雲のように、自分もまた、どこから来てどこへ行くのかわからないのだ)信夫はそんなことを思うと、ひどく寂しかった。何の目的もなく流れている雲と、何の目的もなくこの人生をさすらっているような自分が、あまりにも同じように思えてならない。何だか生きていることがむなしいような気がしてきた。」p263
人生の本当の目的を見いだせない心を描いています。
問:あなたは人生の本当の目的を見出しましたか?
あなたはどこから来てどこへ行きますか?これは人間にとって最も重要な
質問なのです。
どこから来たのかが分からなければ、私たちがなぜ存在し、
どこへ行くのかもわかりません。
コーヒーカップはコーヒーを飲むために造られました。
では人間は何のためにつくられたのでしょうか。自分は何の目的につくられたのでしょうか。何をするために生まれたのでしょうか?自転車に設計者、造った方がいるように、人間を、あなたをお造りになった方がおられるのです。その方に聞いてみる以外にありません。その方を書いているのが聖書なのです。それだけではありません。人間がどのように生きるのかが書いてあるのです。
「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」と書いてある。」マタイ4:4
「すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。」ローマ11:36
「キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。」
2コリント5:15
- 死の問題
「(おれもおばあさまや、おとうさまのように、何時とも知らぬ時、突然死んでしまうのではないだろうか)信夫は恐怖した。父の死の寸前まで、信夫の心を占めていたのは性欲の問題であった。しかし今、信夫にとって最も大いなる問題は死となってしまった。・・・
(これは生きている手だ)と信夫は思った。しかしこの手が、いつか冷たくなり、もはや動かぬ手となることのある日を信夫は思った。信夫は親指から順に指をおり、そして開いてみた。その時、ハッキリと信夫は、人間は必ず死ぬものであることを納得した。(どうして自分が死ぬものであるというこの人生の一大事を、今まで確かに知ることができなかったのだろう。)p169 と納得。
問:あなたは人生の一大事である自分が死ぬ存在であることを意識していますか。
答え:
「ちょうど、一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がったのと同様に」ローマ5:12
「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」ローマ6:23
「イエスは彼女に言われた。『わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。このことを信じますか。』彼女はイエスに言った。『はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております』」ヨハネ11:25-27
- 人格の尊さ
「ふじ子さん、人間にとって一番大事なものは、体だと思うんですか。ぼくはそうは思いません。ぼくには体よりも心のほうが大事です。」「ありがとう・・でも・・」「何がでもなんです。人間が人間であることのしるしは、その人格にあるはずですよ。手がなくても、目がなくても、口がきけなくても、人間としての大事な心さえ立派であれば、それが立派な人間と言えるのじゃないですか。病気のことなど決して卑下してはいけませんよ。あなたにはだれにも真似のできないやさしや、純真さがあるのですからね」信夫は熱心に言った。」pp349-350.
問:あなたは人格の美しさとは何でしょうか。
聖書の答え:それは神の霊(聖霊、御霊)がキリストを信じる人(ヨハネ7:37~39a「イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。』に降ると人格が美しくなります。
問:どのように人格が美しくなるのですか?
聖書の答え:以下の御霊の実を結びます。
「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」
ガラテヤ5:22‐23
「塩狩峠」の続き。・・・・
明日の結納のために旭川から札幌に行く途中、「塩狩峠」で大変なことが起こりました。友人も、東京の知人も乗った客車が機関車から外れ、急こう配を下ったのです。
曲がりカーブがいくつもある手前までハンドブレーキで止めるが止まらないのです。このままだと乗客が死んでしまうかもしれないと思った永野信夫は自分の身を投げ出しました。すると列車が止まったのです。ただ、そこには真っ白な雪に真っ赤な鮮血が飛び散っていたのです。永野信夫が死んだ知らせがすぐに吉川からふじ子のもとに届き、呆然と立ち尽くすふじ子でした。その後、教会で葬儀が行われました。当時、永野信夫の死は大きく知らされ、反響を呼びました。四十九日が終わり、吉川とふじ子は永野信夫が死んだ場所に行き花を手向けました。そこでふじ子は線路に伏せ泣いたのでした。
確かにこの小説はキリスト信仰による人格が特徴です。また人の心を変えた聖書のみ言葉が随所にちりばめられています。永野の死は確かに感動を与えますが、登場人物の心の葛藤、心の有様を深く描いている箇所は見逃せません。人は「みな罪びと」と、その罪の身代わりに十字架で死なれ三日後に復活したキリストを信じる信仰者とその心が描かれています。この信仰から永野の列車での「犠牲の死」が浮かんで来ます。誰もが生きたい、何のために生きるのかと問います。その前に生きる原動力、人を変えるキリストご自身が浮かび上がって来ます。
ここまで隣人愛を与えてくださる聖であり、愛なるキリストが存在したからこそ、永野信夫は列車に飛び込むことができました。
さて、作家三浦綾子はなぜ、この小説を書いたのでしょうか。
三浦綾子氏は旭川六条教会員であり、同じ教会員に「長野政雄」氏がいました。藤原栄吉氏から彼の生涯の話を聞き「わたしは長野政雄氏の信仰のすばらしさに叩きのめされたような気がした。深く激しい感動であった。『そうか、こんな信仰の先輩が、わたしたたちの教会に、現実に生きておられたのか』」と「あとがき」p441に記しています。
「信仰のすばらしさ」に感動し「塩狩峠」を三浦綾子氏は書いたと私は知りました。
同時に三浦綾子氏のキリスト信仰がここに描かれています。「ヤソ教」の誤解偏見を説く努力が随所にみられます。その信仰とは人には原罪があり、その原罪をすべて身に引き受けて死んだ罪なきキリストに対してもつものです。罪の償いがキリストにあります。そして復活したキリストが主を信仰する人へ罪のゆるしを適用して下さり「あなたの罪はゆるされた」と言われるのです。この救いは過去の罪のゆるしだけではなく、神と人を愛する人間へと変えてゆきます。すなわち、生ける神様と交わりの回復、家族、友人、知人との平和の回復へ変えて行くのです。
あなたも聖書からキリストご自身をぜひ知って行きましょう。ご連絡を「佐賀バイブルチャーチ」のホームページから下さいますように。