佐賀バイブルチャーチの入江喜久雄牧師のブログ

佐賀市鍋島へ引っ越しブログを再び始めました。よろしくお願いします。

「心の渇きを満たすキリスト」ヨハネ7:37-44 牧師入江喜久雄

佐賀市鍋島の田んぼは麦の刈り入れの後、早くも田植えが終わりました。

 

 阿蘇の白川水源で透き通った湧き水を飲んだ時、渇いたのどが潤った思い出があります。さて、心の渇きは何で潤されるのでしょうか。

第一に、キリストはだれでも渇いているなら、」と言われました。

これはどのような意味でしょうか。「リフェレシュされたい。支えられたい。強められたい」と言う霊的な渇きです。それは「いつも心の中に起こる切なる願い」なのです。この心の渇きを満たそうと、人は人との出会いを求めたり、地位、お金などを求めたりしますが、これらは良いものですが心の渇き満たすものではなく、渇きは増すばかりなのです。

 

第二に、キリストは「わたしのもとに来て飲みなさい」と人を招きました。

このお方は「このお方がご自分の民をその罪からお救いになるのです」マタイ1:21とあるように人の罪からの救い主なのです。罪とは人が天と地を創造され、生きておられる神様と断絶している状態です。その結果、人は「はあらゆる不義、悪、貪欲、悪意に満ち、ねたみ、殺意、争い、あざむき、悪だくみにまみれています。また彼らは陰口を言い、人を中傷し、神を憎み、人をあなどり、高ぶり、大言壮語し、悪事をたくらみ、親にさからい、浅はかで、不誠実で、情け知らずで、無慈悲です。彼らは、そのような行いをする者たちが死に値するという神の定めを知っていながら、自らそれを行っているだけでなく、それを行う者たちに同意もしているのです」ローマ1:29-32。この人間を救うために来られたのがイエス・キリストなのです。この方は人を救うために全人類の罪を身に引き受けて身代わりとなって十字架で死なれたのです。十字架上でイエス・キリストは「父よ。彼らをおゆるしください」ルカ23:34叫びました。これは父なる神様に対してすべての人の罪の身代わりとなってわたし自身が十字架で償うので、人の罪をゆるしてくださいとの意味なのです。しかし、その日を含んで三日後、死者の中から肉体の復活をとげて罪のゆるしを完成したのです。

 

 星野富弘さん(現在、口に筆をくわえてすばらしい詩画を描き、群馬県に富弘美術館を開いている)は群馬県の中学校に体育教師として赴任しました。クラブ活動の鉄棒指導中、誤って墜落、頸椎損傷を負い、以来、手足の自由を失いました。病院生活の中で、キリストに出会ったのです。その時の心を次のように言っています。

「私は自分がどこに向かっていくのか、何に向かっていけばよいのかわからなかった。その不安が、まったく知らない人のいる泌尿器科に移ってさらに大きくなり、おしつぶされそうになりながら私は心のよりどころを求めていた。そんな私の耳もとを時々、風のようにささやいていく言葉があった。『労する者、重荷を負う者、我に来たれ』それは、郷里の家の裏の墓地に立っていた白い十字架にかかれてあった言葉だった。不思議なほど覚えていたその言葉を、おそるおそる開いた聖書の中にみつけたとき、私がまだ健康で、なにも知らないで飛び回っていた頃からすでに、私にこの言葉を与えてくれていた神様のこころを知ったような気がした。

キリストの御言葉『すべて、疲れた人、重荷を負っている人、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』マタイ11:28

 この神の言葉にしたがってみたいと思った。クリスチャンといえる資格は何も持っていない私だけれど、『来い』というこの人の近くにいきたいと思った。」「愛、深き淵より」pp116-117

 

エスキリストは第三に「来て飲みなさい」

「その人の心の奥底から生ける水の川が流れ出るようになる。」と言われました。

ヨハネ7:38

「飲みなさい」とは「キリスト」を信じなさいという現在命令形です。それほど緊急性があります。人が自分の罪を神の御前で言い表し、心にイエスキリストを自分の罪からの救い主と信じるなら救われるのです。そして渇いた「心の欲望」から「生ける水の川」すなわち「ゆるし、平和、喜び」が流れ出るようになるのです。

この事を主の感謝し、「だれでも渇いているならわたしのもとに来なさい」とイエス様が言われているように、イエスキリストのもとに行きましょう。そのためにどうぞ、佐賀バイブルチャーチの礼拝へご出席ください。あなたを歓迎します。