佐賀バイブルチャーチの入江喜久雄牧師のブログ

佐賀市鍋島へ引っ越しブログを再び始めました。よろしくお願いします。

ひとりぼっちじゃない

佐賀の素晴らしさ。早朝の鍋島2丁目交差点

 

 

「助けて」「さびしい」と素直に言えない社会が孤立を生み出していく。言ったとしても

心底聞いてくれる人が少ないだけでなく根本的な孤独の解決策がない。友達、家族と「わいわいがやがや」している時ですら「ぼっち」を体験します。なぜ、この解決策はないのでしょうか。それは人間自身が不完全で、「義人はいない。一人もいない。」ローマ3:10だからです。衣食住がなければ生きていけません。しかし衣食住だけでは心は満たされません。心の孤独を解決しようと色々な情報を見たり聞いたりしますが、満たされず「もっと、もっと」と飽くなき欲望が続きます。

 

ところが孤独を根本的に解決して下さる方がおられるのです。その方は神が人となられたイエスキリストです。クリスマスに人として生まれ、AD30年4月7日(金)15時ごろ、エルサレム近くのゴルゴダの丘でイエスキリストは無実にもかかわらず十字架で死なれました。その直前、隣で十字架刑を受けていた犯罪人が自分の罪を悔い改めて「エス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」と語った時、イエス様は「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイス(天の御国)にいます」(ルカ23:42-43)と確約されました。ここに全人類の救いがあります。犯罪人が信仰告白した「今日」とは、まだ地上に生きている時であり、また彼がその日の内に息を引き取り死んだ後のことも現わしています。この事実からキリストは犯罪人が生きている時も死んだ後も共におられるのです。

ではなぜ、イエス様は無実なのに十字架で死なれ復活しなければならなかったのでしょうか。それは、犯罪人とすべての人の罪の身代わりとなられ、神の罪のさばきを身に引き受けたからです。「キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした」(1ペテロ3:18)

この方を信仰する人には生きている今も死んだ後もキリストはともに生きて下さるのです。

このキリストを信仰した米国の第25代大統領マッキンレー氏は平安のうちに息を引き取りました。大統領が凶刃に倒れた時、「『主よ。いよいよ近づかん、上る道は十字架の』と小声で賛美歌を歌い『これが私の絶えざる祈りであった』と言い添えた」と侍医マン博士は伝えました。彼は不慮の災いにもかかわらず、息を引き取る時に「主よ」とキリストを呼び、賛美歌を歌い信仰を告白したのは、主キリストが彼ともに生きておられたからなのです。