佐賀バイブルチャーチの入江喜久雄牧師のブログ

佐賀市鍋島へ引っ越しブログを再び始めました。よろしくお願いします。

「そのなすことはすべて栄える」2024年となるために

詩篇1篇 「実を結ぶ新年」「そのなすことはすべて栄える」 2024/1/1

 京都の嵐山に行った時、観光用の人力車を見ました。若い男性が握り棒を握って観光客を後ろの座席にのせて軽快に走っているのを見ました。さて、次の言葉があります。

 「人力車の主は 車の握り棒を握らないと走れない」「読書論:小泉信三

とあるように人は御言葉を握らないと人生を走れないのです。

御言葉を握って生きる人こそ「幸いな人」です。

1節「幸いなことよ。悪しき者のはかりごとに歩まず 罪人の道に立たず あざける者の座に着かない人」ここに3つをしない人が出てきます。

  • 悪しき者(犯罪人ではなく神に従わない人)の計画、前もって考えた計画。うまくいくように、人をだます計画、狭義(戦闘の計画)一緒に歩かない。
  • 罪人(道を外れている人)の道にたたない。その道に一緒に立たない。
  • あざける者(面と向かってけいべつする言葉、態度を見せる)の座に着かない。一緒に座らない。 これらすべて習慣的な動作でした。このように消極的に語り2節で積極的に語ります。

 

2節

「主のおしえを喜びとし 昼も夜も そのおしえを口ずさむ」「喜びとする」は「粘着する。固執する。」に意味があり、1節の悪者たちのただ中で、幸いな人は心の中まで御言葉を至らせます。それは鳩のうめき声のように。(さとし)昼も夜も、その教えを口ずさむ

(静かに思う。瞑想する)つぶやく、うめく、黙想する。瞑想するのです。

イギリス国教会の聖書学者であったW・H・グリフス・トマスは

「み言葉に耳を傾ける。注意する。傾聴する、注意を払う、さらに注意を払って読む。目的をもって読むこと。」と言っています。夢うつつ想像することではなく神の導き、慰め、助言、忠告のかたち、現実に語り掛けてくださる神の御声を聞くのです。

「①からだに聖書がしみこみ、②心が聖なる思いにひたり、③心が聖なる感動に満たされ④記憶が聖なる連想に満たされる」

マシュー・ヘンリー「黙想において心がみことばを吸収し、自分のいのちの一部とする。

心の瞑想とは願い、受け入れ、降伏し明け渡し、愛する。心が真に信じるところのものを、愛と喜びを持って受取り、それをマスターし、いのちを支配させる。知性は養われる糧を集めそのなえる。瞑想において、心はそれを取って食べる。聖句暗唱です。

昼も夜も そのおしえを思い巡らす・口ずさむ人。

 

3節.その人は価値があり移植された木にたとえられます。「その人は 流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び その葉は枯れず そのなすことはすべて栄える

私は夫婦で松原湖のほとりをあるいていると青い葉が生い茂っている大きな木に出会いました。その木の根を見ると湖の水辺に浸っていました。そこに水の流れがありました。

流れのほとりに植えられた木(自然に生え出た木ではない)どこからか持ってきた木、植えられた木 。時が来ると実を結び。その葉は枯れない。そのなすことはすべてさかえる。

(成功する)と訳せます。日常生活の自分が教会で御言葉を聞く自分へと移動します。さらにそのみ言葉を口ずさむ自分になることが「流れのほとりに植えられた木」なのです。その木は成長し実がなり葉が枯れない。そのような木はないが木をたとえとしています。なぜ木にたとえたのか。人ではなく神が育てるからです。

使徒1:16「兄弟たち。イエスを捕らえた者たちを手引きしたユダについては、聖霊ダビデの口を通して前もって語った聖書のことばが実現しなければなりませんでした」とあるように聖書の御言葉は聖霊が働いて記されたのです。信仰持って御言葉を口ずさむ人には聖霊が働き「なすことはすべて栄える」のです。使徒10:44「ペテロがなおもこれらのことを話し続けていると、みことばを聞いていたすべての人々に、聖霊が下った」これらの聖書箇所から御言葉を口ずさみ、そのみ言葉を行う人は「なすことはすべて栄える」のです。聖霊が強く働くからです。しかし、

 

4節.悪しき者は最も重要なみことばがない。まさしく 風が吹き飛ばすもみがらです。「悪しき者は そうではない。まさしく 風が吹き飛ばすもみ殻だ」だから恐れてはならない。悪しき者の外見は素晴らしいが中身はない。もみがらは種がない。風邪が吹き飛ばすもみがら。中身がなく飛んでいく存在。

 

5節.「それゆえ 悪しき者はさばきに 罪人は正しい者の集いに立ちえない。」礼拝に立ち6節「まことに 正しい者の道は主が知っておられ、悪しき者の道は滅びる

だから、私たちは悪しき者たちの中にいながら、御言葉を口ずさみ行いましょう。そこには人の力をはるかに超えた神である聖霊の働きがあるのです。

 

「主のおしえを喜びとし 昼も夜も そのおしえを口ずさむ」その人は 流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び その葉は枯れず そのなすことはすべて栄える

詩篇1:2~3

クリスマスはどのような意味があるのでしょうか。

今年こそ、心に残るクリスマスを          2023/クリスマス

               佐賀バイブルチャーチ 牧師 入江 喜久雄

 

世界中の人々が共に祝い、喜ぶクリスマスがもうすぐやってきます。クリスマスの色々な過ごし方があるでしょう。ある人にとってはクリスマスツリーをかざりケーキを食べて祝う時、また、ある人にとっては二人でロマンチックな時を過ごす日、子どもたちにとってはプレゼントをいただく時、ほんとうに楽しいです。1年の終わり、自分の人生がどんなに暗く、つらくても楽しめるクリスマスが来るのは本当に幸いです。

楽しさだけではありません。もっと深い意味がクリスマスにはあるのをご存知でしょうか。

聖書には次のように記されています。「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」マタイの福音書1章21節。

 人間、私、あなたの心の中をのぞいてみましょう。「人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、おろかさであり、これらの悪はみな、内側からでて、人を汚すのです。」(聖書)。そもそも、このような人間になったのは、「神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました」聖書とあるように、聖書の神様から離れてしまったからです。これは人間の力ではどうすることもできません。自分の力、知恵によって自分を造り変えることはできないのです。

この人間の本質を新しく造りかえてくださるために来られたのがイエスキリストなのです。このお方は何をされたのでしょうか。一言で言えば罪がないにもかかわらず、十字架にはりつけにされ殺されたのです。しかし、三日後に肉体を持って死から復活されたのです。なぜ、イエス・キリストは十字架の受難の道をあゆまれたのでしょうか。

彼は私たちのそむきの罪のために刺し通され」(聖書)とあります。そうです。ひとりひとりの罪の身代わりに十字架にかかり死なれ、死に勝利し復活されたのです。なんと素晴らしい方でしょうか。このお方こそ、すべての人にとって希望なのです。

 

このお方を自分の罪の救い主として、罪を告白して信じた伝道者パウロは生ける神を発見し、歓喜の叫びをしました。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(聖書)

クリスマスの主人公であるキリストはあなた、わたしを罪から解放し新しい人としてくださるのです。この楽しいクリスマスをご一緒にお祝いしましょう。

処女マリアに聖霊によって宿ったキリスト

 1.マリアの胎にいたキリストは罪から救う救い主だった。

場所は首都エルサレムから遠く離れた北上約90キロ地点にある「ガリラヤ丘陵地の盆地」にある町、ガリラヤのナザレでした。そこに婚約中のマリヤがいた。彼女に神の恵みが及んだ。メッセージは「おめでとう。恵まれた方、主があなたと共におられます」と神の恵みが彼女に及んだのでした。マリアは突然の出来事に何が起こったのかわからず、「この言葉に戸惑って、これはいったい何の挨拶かと考え込んだ」のです。そのマリアにみ使いはさらに神からのメッセージを加えて救い主の誕生を知らせます。「恐れることはありません。マリア。アナタは神からの恵みを受けたのです。」神からの恵みとは何でしょうか。その恵みとは人であった。なぜなら人間は人間によって満足するからです。同じように人間は人間によって救いと平安を得る。ハイデルベルグ問35の答え。ご自身もまたダビデのまことの子孫となり、罪を別にしてはすべての点で兄弟たちと同じようになるためでした。

しかも、その人の内容は31節「御覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。」イエスとはどのような意味でしょうか。「主は救い」このお方は救いそのものであった。マタイ1:21「この方こそ、ご自分の民をその罪から救って下さる方です。」的外れの人生から的を射る人生、神様と人を愛する人へと変えて下さるお方、なんと素晴らしいお名前でしょうか。今も、このお方がおられるのです。ハイデルベルグ問36

「罪のうちにはらまれたわたしのその罪を神の御顔の前で覆ってくださる」

2.マリアの胎にいたキリストは世界の王であった。

「その王国はとこしえで、その支配におわりがない。」ルカ1:3233

 マリヤは処女でした。そこに生まれるとはイエス聖霊があなたの上に臨みいと高き方の力があなたをおおうからです。それゆえ生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。」からです。処女降誕のキリストは「人間性をきよめ、罪の汚れから完全に守られた」罪なき人」を表しています。生まれる者は聖なる者とここに罪なき人の裏付けがあります。さらにこのお方は

神の子」と呼ばれます。これは神様が人間の姿を取って来たので、このような表現を使用したというよりも、これは「メシヤ」王様として支配する意味があります。十字架の罪の贖いは祭司的な働き、王様というのは神の民を霊的敵から救い出し、愛と平和の世界的王国を確立するお方です。王様は敵に勝利する方です。いと高き方の子であり、父ダビデの王位をお与えになりとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。今も王権を持っておられます。ヤコブの家を治めるお方、神の民を治め続けておられるお方なのです。

ウエストミンスター大教理問答(1647年英国国会へ宗教家会議によって提出された。)

問45「キリストは、どのように王の職務を果たされるか

答え。「・・・彼らを罪のために正すこと、彼らのすべての誘惑と苦難の下で彼らを守り支えること。(イザヤ63:9)彼らのすべての敵を抑制し制服すること(1コリント15:25すべての敵をその足の下に置くまで、キリストは王として納めることになっているからです)。ご自身の栄光と彼らの益の(ローマ8:28)ためにすべての事柄を力強く統御すること。また神を認めず福音に従わないその他の人々に報復することによって、王の職務を果たされる

3.マリヤの謙遜。

 なぜ、マリヤが神様によって選ばれたのでしょうか。マリヤの38節の御言葉から彼女の信仰がわかり、主の前に身を低くしたから選ばれたと考えられます。

み使いは1:37「神様にとって不可能なことは一つもありません。」と念押しました。特に人が生まれる、主によって救われる人が起こる。不可能なことが神様にとって可能となる。神様ならできる。人には出来ないが神様にできないことはない。特に人の救いと弟子化、成長、これらについてマリヤはどのように応答したのでしょうか。

ほんとうに主のはしためです。」彼女は夫になるヨセフの前と共にまず、

アドベント1週の主日、鍋島にある教会の前のいちょうが美しい黄色に色づきました。


主の御前で生きる人でした。このような方が恵みを受ける。はしためとは「よその家の家事手伝いに雇われていた女性」の意味から主の家で主のために生きる人を表しているのです。彼女は「どうぞ、この身になりますように」と信じ願いを込めている。「御言葉通り生きます」と言い切らなかった。なぜでしょうか。頑張れない自分をマリアは知っていたからです。そこで御言葉どおりに自分の身になりますようにと神様に頼るのです。

私たちもこの祈りを、聖なる者、神の子の力が力強く働き、わたしに及びこのクリスマスシーズンに「彼はとこしえにヤコブの家を治め、その終わりはありません」と不可能が可能となるようにマリアのように願いましょう。

 

あなたには価値がある。「あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています」ルカ12:7a

研修会への途上、夫婦で美しい琵琶湖を見ました。


5羽の雀が、2アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の1羽でも、神の目の前では忘れられてはいません。」ルカ12:6。

当時は、2羽で1アサリオン、4羽で2アサリオンでした。ですから5羽なら3アサリオンのはずです。しかし、5羽で2アサリオンということは。1羽はおまけということで、1羽の雀は価値の少ないものでした。この価値のないような雀一羽でさえもイエス・キリストには忘れられてはいないのです。さらに神様は弟子たちの髪の毛の数を数えるほど私たちを知っておられるのです。

これは「多くの雀」と「あなたがたの髪の毛」と比べて何を語っているのでしょうか。それは「神の配慮(心配り)の偉大さ」を語っています。

スズメとあなた、私の頭の毛についての観察は、神の摂理(この御業とは、神が、最もきよく、賢く、力強く、すべての被造物とそのあらゆる動きを保ち、治めておられることです。ウエストミンスター小教理問11の答え)が人生の細部にまで及んでいることを示しています。「もし小さなスズメに対する神の摂理が真実なら、より価値がある弟子たちへの神の摂理はどれほど真実なのでしょうか。」

つまり、イエス・キリストが、おまけであるスズメ1羽にさえ気を配るなら、弟子たちの「髪の毛さえも」気を配るというのは、一人一人に対する主の配慮の真実がどれほど

偉大かを示しています。しかも、「数えられています。」と書かれています。

「数えられています。」はどのような意味でしょうか。それは髪の毛一本一本が私たちの頭にあるように、私たちのどんな小さな働きも主が一つ一つ数えて覚えておられるということなのです。たとえば、相手を思いながら益になる言葉をさがしてメールの文字にして送信したり、心砕いて電話のことばを語ったりする小さな働きを、人が知らなくても主は知り数えておられるのです。イエス・キリストはそれほど弟子たち、私たちを知っておられるのです。人知れず心を用いて行う主の奉仕を、働きを主は数えておられるのです。

おまけの雀1羽でさえ「神の御前で忘れられていない。」ルカ12:6

さらに、あなたがたに対して神は髪の毛さえもすべて数えられるほど、生活の小さなところまであなたに心を配っておられます。だからあなたには価値があるのです。弟子たちは恐れることはありません。パリサイ人たち、反対者たちから弟子たちをイエス・キリストは助けて下さるのです。

そして、小さな働き、告白「だれでも人々の前でわたしを認めるなら、人の子もまた、神のみ使いたちの前でその人を認めます。」ルカ12:8という恵みが続くのです。

人生で最も重要なのは信仰告白

すばらしい佐賀平野は稲刈りがまもなくです。夫婦で見ました。

人はうわべを見るが、主は心を見る。」(1サムエル16:7b)は少年ダビデ預言者サムエルが8人の兄弟の中から選んだ時のみ言葉でした。ここに神様は心を、心で何を考え口で何を告白するのかを重要視しています。ダビデは後にイスラエルの王として40年間、国を統治しました。その40年間で詩篇89篇の作者は26節で「彼は わたしを呼ぶ。『あなたはわが父 わが神 わが救いの岩』」とダビデ信仰告白を記しました。

ダビデ王は人生で数々の戦いに勝利しました。また誘惑に負けることもありましたが、この詩篇では彼の人生で最も大切な一つを記しています。それは彼の信仰告白だったのです。

 まず詩人はダビデ契約(サムエル7:11)を語った神様に対して「わたしを呼ぶ」と語ります。ここに人間の本来の生があります。それは衣食住と身体にいのちを与えて下さる神様を人が「呼ぶ」ことなのです。これこそキリストが言われた「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」(マタイ4:4)生き方なのです。人は神のみ言葉を聞いて応答する。その応答が「わたしを呼ぶ」事なのです。苦しい時に呼び、叫び、受けとめて下さる方がここにおられるのです。

つぎにダビデは「あなたはわが父」と呼び求めています。「わが父」とは父なる神様に養子となった自分を現わしています。また「わが父」はダビデ自身の父親であるエッサイの人柄を思い出した言葉ではなく、ダビデ契約を与えた方に対してであると文脈から読み取れます。

それは詩篇892835までの文章の論の展開がサムエル7:11‐16と全く同じだからです。ここから学ぶ内容は人が神様を呼ぶ時、ダビデ契約を信じて呼ぶことが大切だという事です。

さらにダビデは「わが神 わが救いの岩」と呼んでいます。「わが神」は「無から有を造り出し、しかも統治する力、全能者であって主権者であるという意味が」あります。また「わが救いの岩」は救いにおいて、ゆるがない、堅固なお方です。救いは罪の赦し、解放だけではなく聖化を現わしています。ダビデにとって毎日の霊的戦い、誘惑に対して勝利を必ず与えて下さる神様、助けが何もない状態から多くの助け、働き人を与えて下さる神様です。それは私たちにとっても同じです。

 結論:私たちも「あなたはわが父 わが神 わが救いの岩」と神様を呼んで、具体的に祈りにおいて、あかしにおいて信仰告白を実践しましょう。主が一番喜ばれ、人生で最も重要な事柄だからです。主に祈りましょう。

(佐賀バイブルチャーチの水曜祈祷会から)

希望・死に対する勝利2

暑い日の教会近くの交差点、「ワシワシ」とクマゼミが泣いていました

教会開拓1周年記念礼拝の時に飾られた美しい花。



実存主義者、哲学者のハイデッカーが「人間は死へと向かう存在である」と絶望の言葉を残したが、あるキリスト者の医師は「死を考えることによってはじめて真実の生を考えることができる」と語った。それは死をはるかに凌駕する復活を言うのです。

 

1.死は自然ではなく異常です。

「ツクツクボーシ、ツクツクボーシ。・・・ジーツ」と刻みながら鳴くセミ、その死体を見て涙を流して泣く人はいないと思います。ある人は元気な時「死は怖くはない」と、またある人は「無になる」「死は自然、運命だ。あらがっても仕方がない」と言います。この自然死の考え方に対して「死」は異常なのだと小畑進師は異をとなえるのです。

「けれども、はたして『死』は言われるように『自然』のこと、不問の事だったのでしょうか。人間は、太陽が朝のぼり、夕べには沈むの見ても、少しも異としないのに、人が生まれて死ぬ時には、あるべからざることと感じ、とりかえしのつかない苦痛を覚えるのはどうしてでしょう。この苦痛は、本来死ぬべからざるものが死ぬということの、あらわれなのではありませんか。死が異常であることのしるしなのではありませんか」(東京基督教大学教授。小畑進師「キリスト教慶弔学辞典」p219)三人称の死に直面しても「死」に対して恐れを持たないのに二人称または一人称、自分の死に直面すると平常心だった時と違い、たちまち恐怖を自覚するのはどうしてでしょうか。自分が病気になったり、怪我したりすると「ひょとすると死んでしまうかも」と心に苦痛を覚えるのはどうしてでしょうか。私の母は小学校6年生の時、「がん」で48歳の若さで4人の子どもと夫を残して「名古屋ガンセンター」の個室で息を引き取りました。そこで全員、涙で泣き崩れたのを今も鮮明に覚えています。「なぜ母は死んだのか」と問い続けても答えは出ませんでした。がん告知を受けたある患者が「なぜ私だけがこんな苦しい目にあうのか」と気が狂わんばかりになりました。このように死は「自然よ」と言い切れないのです。「日本人は、明るい面、あるいは華やかな面のみに注意を向け、暗い面から目をそむけるという傾向がある。つまりきちんとしたかたちで死と対決しようとせず、どちらかといえば、逃げようとする」(自治医大教授。平山正美師「死生学とはなにか」p322)

 

 2.死とは何か

朝、花を咲かせても 移ろい 夕べには しおれて枯れています。私たちはあなたの御怒りによって消え失せ あなたの憤りにおじまどいます。あなたは私たちの咎(とが)を御前に 私たちの秘め事を 御顔の光の中に置かれます。私たちのすべての日は あなたの激しい怒りの中に消え去り 私たちは 自分の齢(よわい)を一息のように終わらせます。私たちの齢(よわい)は70年。健やかであっても80年。そのほとんどは 労苦とわざわいです。瞬く間に時は過ぎ 私たちは飛び去るのです詩篇90篇6-10節。

朝露のように短い一生で「私たちの咎(とが)」というのは「すべての人間の罪」を言い、それは聖なる神を認めない、聖なる神様と交わらないで自分中心に生きることを言います。この神様への背きの罪が招いた結果として死があるのです。

罪の報酬は死です」と聖書は語り、同時に「死」を超える「永遠のいのち」を示します。

 

3.死の解決イエスキリスト

しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです

ローマ人への手紙6章23節。

キリストにある永遠のいのちとはキリストの復活の命なのです。それは死人から肉体の復活をした主イエスキリストを信じる信仰によってよみがえらされ、与えられたいのちを言うのです。イエス・キリストだけが十字架で死なれ墓に葬られて3日後に復活しました。キリストは言われました。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。ヨハネ11章25節。あなたが死の恐れから解放されるために次の事をして下さい。第一に、聖なる神様に対して自分中心の罪を悲しみ告白し、第二にあなたの罪の身代わりとして十字架で血を流しつくし死なれ復活したキリストを信じて下さい。人は全員死にますが、復活の主を信じ続けた人は死後、天国で、すなわちキリストの100%慰めを受けて生きるのです。この永遠の命を自分自身が得てこそ、喜んで生きて行けるのです。

新幹線の新大阪駅から淀川方面へ目を向けると淀川キリスト教病院がある。そこに直腸癌で入院された方の手記を紹介します。

「発病以来私の心を占領していた最大の課題は、おしせまった自分の死の問題でした。夜半になると、ふっと目が覚めては死の不安におそわれ、いてもたってもいられぬ恐怖に、まんじりともしませんでした。死についての教えを手あたりしだい読みあさりました、しかしどんな名論卓越も、深遠な思想も、要するにその人の死についての単なる考えや想像や願望でしかなく、死の事実そのものではありません。死のさしせまっている私にとっては、何の力にも慰めにもなりません。

 死とはいったい何なのか?死後はどうなるのか?死を経験した者は無数にあるが、死者はもはや私に死を語ることはできない。実際に死を経験して、しかも私に死を語ってくれる者はいないか?あった! 聖書を読むと、まさにその資格を持った方がある。すなわちキリストである。キリストは私のために十字架にかかって死なれた。しかも現実によみがえり、今も私と共においでになり、語りかけていて下さる。キリストの言葉こそ信用できる。キリストだけが信頼できる唯一のお方である。死も死後の世界も私にはわからない。しかし死の勝利者、私の罪のあがない主、イエス様が私と共にいて下さる以上心配はない。万事お任せして主におすがりするばかりである。私にはこれ以外の道はなく、しかもこれほど確かな道はない」(柏木哲夫師「病める心の理解」pp200‐201)その後、神様に導かれたみ言葉は詩篇23篇であった。

主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ いこいのみぎわに伴われます。主はわたしのたましいを生き返らせ 御名のゆえに 私を義の道に導かれます。たとえ 死の陰の谷を歩むとしても 私はわざわいを恐れません。 あなたがともにおられますから あなたのむちとあなたの杖 それが私の慰めです。詩篇23:1~4

 

希望・死に対する勝利1.

 

背振山近くの道の駅から見た広い佐賀平野

イエス・キリストはアフリカの希望です。」と語ったのはアフリカ56か国中、最貧国で国民の14%がHIVに感染し、死者が多いモザンビーク出身の青年でした。しかもこの国のクリスチャン人口は48%というのです。私はこの方と2007年に福岡で会いました。

毎日、死に直面している国の人々がなぜ、イエスキリストへの希望を持っているのでしょうか。それは死に打ち勝ち肉体をもって復活したキリストを信じる者がキリストにある復活のいのちを今生きることが出来るからです。

たとえ死の陰の谷を歩むとしても 私はわざわいを恐れません。 あなたがともにおられますから あなたのむちとあなたの杖 それが私の慰めです。詩篇23篇4節。

1.死は自然ではない

人は元気な時「死は怖くはない」また「死んだら無」「死は自然だ」と言います。しかし、自分が病気になったり、怪我をしたりすると「ひょっとすると死んでしまうかも」と心に苦痛を覚えるのではないでしょうか。ガン告知を受けたある患者が「なぜ私だけがこんな苦しい目にあうのか」と言い、気が狂わんばかりになられました。だから「死の苦痛は自然なのではなく異常であることのしるしなのです。」それが「死の陰の谷を歩むとしても」に凝縮されています。この「歩むとしても」は動作が完了していない状態です。言い換えれば今も死の陰の谷を歩き続けているのです。これが人間の現実なのです。それは創造神、命を与えた神を否定し自分中心に生きる人間から来ています。これを聖書は罪と言い「罪の報酬は死です」と語ります。

2.キリストにある復活の命

また同時に「しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」と死の解決を聖書は語るのです。キリストにある「永遠のいのち」とは「霊魂不滅、地上の命の延長のようなものではなく、まったく新しい命なのです。」それは主イエスキリストを信じる信仰によってよみがえらされ、与えられるいのちを言うのです。この復活のキリストを冒頭の詩人は「あなた」と呼び「私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから」と喜びの声をあげます。 たとえ「死の陰の谷を歩み」続けているとしても、自分一人ではなく復活したキリストが、自分と一体となって「ともにおられる」ので「私はわざわいを恐れません」と語っています。この「恐れません」も動作が完了していないのです。つまりキリストがおられるので「恐れない」が続いているのです。

3.希望ある人生

人はたとえ死の痛みを覚えたとしてもキリストへの信仰があれば、神様は一緒におられるので恐れないで生きていけるのです。「キリストは自ら 十字架の上で 私たちの罪をその身に負われました」そして3日後に死者の中から新しい肉体の復活を遂げ生きておられる唯一の方です。このキリストは、罪を悔い改めてキリストを信じる者と共に生き、死ぬ時、死後も共に生きてくださるのです。

私が福岡で牧師をしていた時、69歳で洗礼を受け77歳で天に召された税理士の方がおられました。彼は「キリストが私の罪のために、十字架にかかられたこと、それが事実であり、そのために現に私が生かされており、これからも永久にいかされるであろう、そして天の御国で「義の栄冠(天での報い)」を受けるという以外に価値のあることは何もない」と言いました。あなたもキリストを求める人となりましょう。