佐賀バイブルチャーチの入江喜久雄牧師のブログ

佐賀市鍋島へ引っ越しブログを再び始めました。よろしくお願いします。

「冷え切った心に、電源が入る瞬間」

 

  

 私は30歳代の頃、埼玉県志木市にある志木新座めぐみ教会の牧師でした。そのころ高校生に様々な方法で福音を伝えていました。特に立教新座高校、慶応志木高校、新座柳瀬高校(当時:新座北高校)、西武台高校の生徒たちへ「聖書の話」と「高校生の集まり」を書いたチラシを一緒に校門前で配布し続けました。妻と一緒にそのチラシを配布し続けましたが教会に来る高校生はゼロでした。夫婦ともに「がっかり」の連続で、かなり、へこみました。

1.暗闇に灯る「電源」

ところが3カ月が過ぎたある日曜礼拝に4人の高校生がなだれ込むように出席したのです。金曜午後の高校生集会ではなく、礼拝に来た時には大変驚き本当に神様は祈りに答えてくださったと感謝しました。その4人のうちの一人に佐々木さんという女子高校生がいました。彼女は小学生の時から中学までいじめられていた人でした。「よるな!バイ菌」「またあんたが悪いんじゃないの」と言われたり、いたずら電話、いやがる歌までつくられ、教会に来た時には劣等感を強く持っていました。 ところがイエス・キリストの愛、いのちを与える愛を知り、イエスキリストを救い主と信じ、その年の12月28日に洗礼を受けました。高校2年のある日、40度の熱がありつらくて教会に電話をかけてきました。そこで私は話を聞いて電話でお祈りしました。その祈りが終わったとき、佐々木さんは声を詰まらせて神様にお祈りしました。その時の気持ちを佐々木さんは、後に、ある文章でこう書いています。「不思議と暗く冷えきっていた私の心に電源が入り、本当にイエス様の無限の愛とゆるしがわかったのです。旧約聖書イザヤ書43章4節。『わたし(天地創造の神)の目にはあなた(私)は高価で尊い」という箇所と新約聖書 コリント人への手紙第二5章17節『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました』という箇所を大切にしていきたいと思います。」

2.あえて「弱い者」を選ばれる神の逆説

その後、佐々木さんは毎週、日曜礼拝に来て最前列に座り聖書の話に聞き入っていました。時々、長い髪を揺らしながら目を閉じることもありました。ところが次のみ言葉が語られた時、目を覚ましじっと聞き続けていました。「兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。有るものをないものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。」(コリント人への手紙第1。1章26-28節)

 その女子高校生は無に等しい者、無視されている者、軽蔑されている者を神が選んで下さったことがわかり喜んでいました。実はこの文章を読んでいるあなたも私も 神は選んでおられるのです。

 

3.「存在そのものの肯定」

いかがでしょうか。あなたも神キリストの力を知りませんか。大丈夫です。神は無条件であなたを招いておられます。学歴、職歴、生まれ、生育など、人はみな違います。誰にも言えない悩みを持っています。神・キリストは何が出来るか出来ないかではなく、ただ、そのありのままのあなたを神・キリストは喜んでおられます。あなたの「存在」そのものを受け入れ喜ばれる神様なのです。

しかし、主の御名を呼び求めるものはみな救われる

 

 

「家族愛の再構築」エホバの証人を救出するために。会場:福岡市民会館

エホバの証人を救出するために。

講演 テーマ「家族愛の再構築」

・・・聖書教理の相違・・・

2011年6月10日(土)10:30から

場所:福岡市民会館

         2022年4月より現在まで佐賀バイブルチャーチ 牧師 入江喜久雄

 

1.私のエホバの証人との出会い・・志木市銚子市、福岡市の研究生、証人、そのご家族、救出カウンセラー。2.聖書とエホバの証人との違い、救出後のフォローアップの重要性。3.家族の土台。本当の愛と助け。コミュニケーションの重要性、妻の役割、夫の役割、子どもの本当の躾。これらを現実と聖書から論じ、共に考える時と願っています。

 

  • 私のエホバの証人との出会い・・志木市銚子市、福岡市の研究生、証人、そのご家族、救出カウンセラー。1984年神学校卒業と同時に埼玉県の志木市にある志木新座めぐみ教会に牧師として派遣され、独身2年後に結婚しました。志木ニュウタウンと呼ばれる3000世帯のマンション団地、その近くにある約1000世帯の新座団地が伝道エリアでした。生まれた長男をおぶって、妻と共に、ほぼ、毎日、午後、訪問伝道をしました。途中、個別訪問されていたエホバの証人とよく会いました。その中で2人の男の子を育ておられるS研究生に会いました。この方は4階に住んでおられ、真上の5階に司会者のご婦人がおられました。お二人と団地の階段、またS研究生と彼女の自宅で妻と私、1歳の長男4人で聖書研究を行いました。次第にS研究生は教会の礼拝に来られるようになり、洗礼準備クラスを受講、終了されました。その時、彼女は「学びはこれだけでいいのですか。」と拍子抜けしたようでした。洗礼を受けられ、今は八王子のキリスト教会でキリストの証人として喜びに満ちておられます。司会者は私に「聖書にある愚か者とはどんな意味ですか。」と質問をされる、「神はいないと心で言っている人です。」と答えましたが、その後、接点を持つことはなくなりました。長老の方と公園のベンチで何度も、話し合いましたが、会話が平行線で終わり、次第に会えなくなりました。

銚子市に転任したのが、1991年でした。銚子キリスト教会は付属保育園を経営しており、私は牧師と園長の職を受けることになりました。ある時、H研究生と出会い、その方が多く、ご質問をされて来ました。ある時「先生、会ってほしい人がいるのですが」と言われましたので、早速、その方のご自宅に行きますと、牧師が来たと知ったのでしょうか、家の奥に隠れてしまいました。私を悪魔か何かと思ったのでしょう。

申命記18章:22から「預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。」偽預言の数々を伝えました。お二人でキリスト教会にお子様づれで来られるようになり、私が福岡宣教に遣わされた後、洗礼を受けられ、東京キリスト教大学神学部を卒業され、信徒伝道者をされています。

福岡開拓伝道が阪神淡路大震災オウム真理教の1995年始まりました。家族5人借家に住み、日曜日はリビングを礼拝場として、信徒ゼロからのスタート、幸い、クリスチャン大学生、主婦の方が来られましたが、5年後の新会堂献堂まで、10名の礼拝が続きました。訪問伝道、地下鉄駅前でのチラシを配布しながらの伝道、大学生伝道、思いつけば、なんでもしました。その間、奥様がエホバの証人としておられる夫、女性の研究生2人、救出カウンセラーの3人の先生、この方々は日本全国、救出のためにはげんでおられ、その熱心さ、献身さにあたまが下がり、救出セミナーに私は大阪まで行った思い出があります。多くの方々が間違いに気づかれ、ある姉妹はキリスト教会で長老をされています。感謝なことです。ただ、せっかく救出されても、もとの生活、つまり、どの宗教にも入らない方、行方が分からなくなった方もおられました。不活発な方とも大勢会いました。福岡では救出された方々のアフターケア、つまりフォローアップに携わりました。次男をおぶって妻は私についてくれました。約1年かかりましたが、日々、明るくなっていく姉妹がたを見、教会につながっているという話を聞くたびに喜びが沸いてきます。

 

2.聖書とエホバの証人(以下JW)の教理の違いを根本的な所だけ紹介いたします。

①聖書が違う

プロテスタント教会で使用されている聖書の一つである。「新改訳聖書」は旧約聖書ヘブル語アラム語新約聖書コイネーギリシャ語からの翻訳である。あとがきには次のような説明があります。「聖書は永遠の神のことばであって、あらゆる時代に対して、常に新しい力をもって語り、救いのための知恵を人々に与えることのできるものである。新改訳聖書は、今の時代の人々のために、この神のことばである聖書を、正確に、わかりやすく翻訳しようと企画された。翻訳編集に携わった者の一致した願いは、原語にあくまでも忠実であり、最も読みやすく、しかも聖書としての品位を失わない訳文を得ることであった。新約はネストレの校訂本24版、旧約はキッテルの三版以降の者に基づき、訳業を進めたが、問題の箇所については、正しい本文に近づくことに努め、欄外注に、その根拠を明らかにするようにした。」

 

日本語版の「新世界訳」は本来の原典であるヘブル語、アラム語ギリシャ語ではなく、英文新世界訳の翻訳であるということです。「原語本文との慎重な照合が行われました。」(新世界訳の前書き)は照合であって翻訳ではないと言うことです。

「この日本語への翻訳は、新世界訳聖書翻訳委員会によるものではありませんが、同委員会の作業を反映し、それに基づいたものです。」6頁。ウッド師は「新世界訳の日本語版は、原文から直接翻訳された普通の聖書と違って、翻訳からの翻訳、つまり、「重訳」ということになります。」と述べています。千代崎秀雄師は「エホバの証人は」キリスト教か」の中で「つまり英文「新世界訳」が原典で、それを各国語に訳す際にはその「原典」つまり英文「新世界訳」から逸脱しないように指導され、同一の主張(エホバの証人の教理)を表現するべき各国際版が作られたということだ。もし、それぞれの国の翻訳者が直接に聖書原語から翻訳したら、英文「新世界訳」とは違ったものが生まれ、それによってエホバの証人の教理に疑問を抱くような結果になる恐れがある。標準はあくまで英文「新世界訳」でなければならないというわけだ。」114頁」P212

 ではその英文「新世界訳」は優れた原語学者が翻訳したものだろうか。翻訳委員会5人の内、大学まで進学した人は一人もいません。フレデリック、フランツの場合は大学2年の時やめています。聖書翻訳者エドガー・J・グッドスピ-ド師は「「新世界訳」の文法は悲しむべきものだ。と語っています。」p225

 

②神論が違う

「初めに、神が天と地を創造した。」創世記1:1

「トマスは答えてイエスに言った。『私の主、私の神。』ヨハネ20:28

キリストは神である。

「そこで、ペテロがこう言った。『アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。おsれはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜ、このようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。』使徒5:3-4 聖霊は神である。

「父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け」マタイ28:19

父なる神、子なる神、聖霊なる神は三位一体である。

 

JW・・父だけを神とします。

 

③人間論が違う

聖書「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」ローマ3:23「義人はいない。ひとりもいない。・・彼らはその舌で欺く、彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」

「彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。彼らは、自分では知者であるとは言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。・・彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意に満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きとわるだくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わかまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行っているだけでなく、それを行う者に心から同意しているのです。」ローマ1:21-25、28-32。

「あなたがは自分の罪過と罪の中に死んでいた者」エペソ2:1

 

JW

「自分が弱く不完全な者であるために、罪を犯してしまうことがある。努力が足りないために誘惑に負けてしまう」努力次第で改善できると考えている。

 

 

④贖罪論(救済論)

「しかし、彼は私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎(とが)のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって私たちはいやされた。」イザヤ53:5

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ。すべてが新しくなりました。」Ⅱコリント5:17

「まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」ヘブル9:14

「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で、神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。

人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるからです。聖書はこう言っています。『彼に信頼する者は、失望させられることがない。』ユダヤ人とギリシャ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。『主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる』のです。ローマ10:9-13

聖書の救いはキリストを信じる信仰のみによっての全人格の救いを語っている。

それはすべての人に提供されている。救いは罪およびそのいっさいの結果からの救出であり、キリストを信じるすべての人に与えられるものです。「罪のゆるし」「永遠の命」「神の子とされること」は将来ではなく、信じるとき与えられます。教会、つまり信仰告白共同体においてキリストによる救いがなされます。

 

 

JW・・アダムと同等の価値の存在であるイエスキリストガ、アダムの子孫をアダムから受け継いだ罪と死から終末時に救い出す道を開くために支払った血の代価です。

キリストの犠牲の恩恵を受けるのは、エホバ神への愛に基づく順応を立証した人々です。キリストは神の創造による最初のもの(被造物)で神の代弁者です。神より下の地位にあります。救いは現在の邪悪な事物の体制からの救出であり、未来において罪と死への束縛から解放されることです。

 

かれらの救い・・「組織の教えに忠実な者のみに与えられる報いのことで、ハルマゲドン後の地上の楽園において、戦争や犯罪や病気や貧困から解放されることを意味しています。しかし、それはあくまでも未来の経験であって、結局のところ彼らには、自分が今、罪から救われなければならない人間であるという意識が全くないのです。」(『エホバの証人への伝道とフォローアップ』ウィリアム・ウッド)

 

 

  • フォローアップの重要性。

家族、親戚が多大な時間と金額を用いて、救出カウンセラーによる説得というリードアップによる救出がされても、アフタ-ケアがされていないと、生涯、病をかかえた人となります。自力脱会も同じです。その後、フォローアップ、特にリハビリテーション「本来あるべき状態への回復」が必要です。本人が間違った団体から離れることは大切です。「しかし、それは解決のための第一歩なのです。間違いに気付いた時、本人は絶望と混乱の中にあります。価値観を喪失した状態にあります。もっともその価値観というのは、間違った教えの中で作り上げられたものなのですが・・そこから正しい価値観、将来に対する希望を取り戻すことが必要です。本人が間違いに気づいた時の心境についてしばしば、『死んでしまいたい』『気が狂ってしまいたい』『無人島で一人ぼっちで生きていきたい』ということが言われます。」また「様々な後遺症に悩まされます。フラッシュバックもその一つです。次のような悩みを抱える人もいます。

  • 自分で物事が決められない。(2)自分のためにお金を使うことへの罪責感
  • やはりかつて入っていた団体や教えが正しかったのではないかと思ってしまう。」のです。

2世の例。恵美

  • 生まれた時から中学1年生までJWの2世だった恵美は組織を離れて6年以上経つのに「いまだに自分でも理由の分からないことでイラついたり、ムカついたりすることがしばしばあるという」p94母親がJwに19歳の時、洗礼、大学卒業、正規開拓者、結婚後恵美を出産、生後10ヶ月から集会で泣いたり、騒いだりすると、王国会館の懲らしめの部屋でお尻を竹のものさしで叩くようにする。母親は46歳の頃、JWをやめ、「恵美には泣いてあやまりました」という。しかし、それで、問題が解決するはずがない。母親と一緒の伝道、学校ではいつもひとりぼっち、いじめ、急激な視力の低下、脳に腫瘍、しかし、中学2年時に母親がやめたのをきっかけにやめる。そのご、病院にいくと、視力が回復し、腫瘍がなくなっていた。
  • 元2世に残るトラウマ  アリサ22才

生まれてから中学まで、JWの母親と週3回の集会と伝道訪問に明け暮れる。中3で離れる。教団の「今が楽しくなければいいと思う人は滅ぼされる」の言葉で破滅を知りつつ、離れる。サタンの影響を受けたとして、母親が急に冷たくなる。

高校2年になり、SMAPにはまり、バイトをしながら追っかけ、その後、短大、

専門学校。スナックでバイトしながら、今はスナックのママにはまっている。

家族4人がそろっても会話がない。テレビを黙って見ている崩壊した家族である。アリサはエホバ、SMAP,ママと依存症が続く。JWの囲いの中から飛び出したけれど、その代わりにSMAP,ママと入れ替わっただけ。「元2世たちは『理解されにくいが、表面的には社会の中にはいるけど、実感としては一般の社会とは別のJW社会の中で暮らしているんですよ。』

では、彼らにとって自立とは。自分でものを考え、実行する人になれるのか。

 真の自立は「この方(イエスキリスト)以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人には与えられていないからです。」聖書:使徒4:12

  • 条件つきの愛 2世アキラ34才

両親、4人の祖父、祖母すべてJW、親戚15人がJW、うち3人が長老。

親から愛された記憶がない。いつも条件付き、集会参加、伝道訪問を続ければ、愛される。かわいがられる。しかし、中学から不活発になり、親が口をきかなくなる。高校卒業と同時に家を出される。自力で予備校、早稲田合格、その後、そう、鬱の繰り返し、中退、職を転々としつつ、母親の愛を求めて女漁り、同棲した女性が驚いた。クリスマス、誕生日は祝わない。出産の時、輸血が必要になった場合、「輸血をしない。」という。教団を離れて20年たってもJWから解放されていない。現在治療中、そのセラピストは「抑圧された感情、葛藤がすさまじい」と言う。条件付きの愛が本人を抑圧したのである。親は子どもがJWの生活をしていれば、愛する。そのためには教義、組織に疑問が沸いても無意識の内に抑制する。そうすると、いつまでもアンバランスな自分になり、自身が持てない人となる。そのアキラはその後、元2世純子と結婚。しかし、子育てで、二人とも、普通の家庭を知らないため、困難を覚えている。かれらの解放は何だろうか。きちんとしたアフターケアによって無条件の愛をあびるほど体験するしかない。それはキリストの愛である。

「キリストは私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。」1ヨハネ3:16a

「正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」ローマ5:8

  • 2世、尾形健、43歳 無条件の愛を知らない人。

1965年小2の時、「男性の細身のベルトを使って、椅子などに跪かせて、20回くらい子どものお尻を叩いてください。」が会衆内で発表され、その後、30年もの長きに渡って懲らしめが続いた。「親から無条件で自分を肯定されたことがない2世たちは、自分で自分に自信が持てない。自分の存在が肯定できなければ、他者を認めることもできない。その結果、人との付き合いがうまくいかなくなる。

社会に出てから、職を転々とした。喫茶店、ホストクラブ、キャバレー(数箇所)

シロアリ駆除、自衛隊、トラックの運転手、自動車板金工、船の機関士。それは「人とうまく付き合うことが出来なかった」からである。自信がないから人から肯定されたい、認められたいと言う気持ちは人一倍強い。そのために人とうまく付き合えないのに人に依存しやすくなる。人から認めてもらうと、すぐに人を信じてしまう。」専門家は言う「親から虐待される子は誰かに依存したいから依存症に陥りやすいのです。アルコールに溺れたり、ドラッグ依存になる子どもは少なくありません。」

結婚後、女の子誕生、今、8歳、叩いて育てていく。自分が育ったように子どもを育てていく。育て方が分からないのである。叩く時は「子どもらしく振舞った時」である。自分の子ども時代を再現しているのである。

 

親も2世もJWをやめても人格が変わらないから、子どもの接し方が分からない。

ここに、フォローアップの重要性がある。キリストのフォローアップは人間回復、本当の人間になる道なのです。これこそが家族愛の再構築の核である。

 

 エホバの証人と救出を通して、なぜ、本人がこの宗教団体にはいったのか。入った動機は何だったのか。この問題が解決されない限り、救出されても、また入信前の本人に戻り、何も解決されないまま、悶々とした日々が息を引き取るまで続くのです。この機会を通して、本当の夫婦関係、親子関係、本当の価値観を見直すべきなのです。そのためにもリハビリテーションは大切なのです。

3.家族の土台・・無条件の愛

 

条件付きの愛が多くあります。夫が会社で働き、収入があるから、健康だから夫を愛せる。ところが、仕事もなく、家でごろごろする日々が長く続くと、どうなるのか。妻が優しく、料理、子育てを良くおこなっている時は愛せる。ところが、妻が忙しく、家を空け、夜の時間も持てないなら、どうなるのでしょうか。子どもが日頃、勉強し、成績が良い時は愛せるでしょう。不登校になり、一日中、部屋にこもっていたら、また、学校に行かず、外出を繰り返す娘となった時、どうなるのでしょうか。エリートコースを歩んでいた長女が大学卒業時、うつになり、12年間心療内科に家から通うようになった。片親はその娘の存在を受け入れられない。現代に一つの病が蔓延している。

それは条件付きの愛。その条件が崩れ去ると、途端に家族、親子、夫婦間で心のバトルが始まる。何の解決もないまま、時間だけが過ぎていく。ゆるしがない。無条件の愛がない。

生きづらい。

 

しかし、ここに無条件の愛がある。「正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし、私たちがまだ罪人であったときキリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」ローマ5:8

 

キリストの愛こそが無条件の愛です。キリストは2000年前、多くの人々に愛を示され、病をいやし、民衆の空腹を満たし、死人ラザロをよみがえらせ、姦淫の現場で捕らえられた女も罪をゆるされました。にもかかわらず、12弟子から裏切られ、民衆からは「十字架につけろ」「十字架につけろ」と叫ばれ、これが、ローマ総督ピラトによる十字架刑の決断を導きました。このような事態にも関わらず、キリストは十字架上でだれ一人、責めることなく、「父よ。彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」ルカ23:34

キリストは十字架での肉体、霊的最大の苦しみの中で自分をのろう人のために、その罪のゆるしを叫ばれたのでした。血を流され、ご自身の肉体をいけにえとして父なる神に捧げ、死に三日後、復活され、救いを成し遂げられたのでした。このキリストにより、だれでも、罪を悔い改め、主を信仰するなら、永遠の命が与えられるのです。つまり、生ける神の臨在、交わりが与えられるのです。現に、キリストのこの叫びを聞いた隣の十字架にかけられていた犯罪人は信じ救われたのでした。

罪人であるにもかかわらず命を捨てられた愛こそ、この世界に示された無条件の愛なのです。・・信じましょう。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」使徒16:31

「本来あるべき状態の回復」とはなにか。それは無条件の愛の中での人生である。

それは聖書のみに記されている。その聖書を改ざんして、この無条件の愛を示さないのがJWなのです。

このキリストの愛こそが、家族,人生の土台なのです。家族の事でつらい時、キリストの示された十字架の愛と苦しみを思うとき、目の前の出来事を受け入れられる、条件付けずに、相手を愛せるのです。

 

東京女子大学の学長を昨年3月まで2期8年まで勤めた湊 晶子先生は次のように述べました。「人と人の間だけの教育では、自己卑下かうぬぼれかどちらかとなり、必ず、ブレます。ぶれない個を位置づけるためには縦軸が必要です。縦軸こそ絶対者神との縦関係です。座標軸が明確な時、人はぶれない点を打つことが出来るのです。リベラル・アーツ教育(人間教育ではなく人格教育)とはキリスト教の基盤なくしてあり得ない教育の原点です。」昨年、東京基督教大学20周年の講演で述べられました。この縦軸(絶対者なる神と人との関係を全人類に切り開かれたのがキリストの十字架と復活なのです。)

 

  1. この恵みを体験された元JWの山田幸子(仮名)姉妹は

 

このキリストの十字架を説得の現場で聞きました。

あかしの中で次のように述べています。29歳の時JWのバプテスマを受け、家族みんなが生きて「ハルマゲドン」を通過し、地上の楽園に入るためには、私ががんばらなければと無我夢中でした。説得の中で「いつも柔和に接して下さる牧師夫人との語らいの中で、少しずつ、私の心が柔らかくなっていったのでしょう。ある時、永遠の命について話している時「それはグリコのおまけのようなものです。」と仰いました。私ががんばって、がんばって手に入れようとしているものがおまけだというその真意がわかりませんでしたが、神様が与えて下さる祝福は不確定な未来にではなくて、イエス様を信頼して生きる毎日の中で与えられる喜び、平安こそがグリコ、本当の祝福であると言うこと、そして牧師夫人はもうその祝福に与っているからその先にあるものはおまけだと言い切ることが出来るのだと考えた私は私もそのグリコがほしいと思うようになりました。イエスキリストが自分の救い主であると信じ告白する事によって、すべての人に与えられる恵み、今与えられる恵み、新しく拓かれていく聖書の真理に私の心の目も開かれていきました。私が最後までひっかかったのは、イエスキリストが神であるかと言うことでした。「もし、イエスが神であるなら、神ご自身が十字架にかかって死んだ事になる。たかだか人間のために神様が死なれるなんて、釣り合いがとれないのではないか。」と私が言うと「幸子さん、人間の罪、私の罪、あなたの罪がそれだけ深くて重いということなのですよ」と答えられました。

私の罪、今まで自分の体裁を守るためについてきた多くの嘘や、神に喜ばれない多くの行いや思い。今だって私だけが真理を知っていると思いあがり、家族に大きな心配と迷惑をかけている。これら全部のために、イエス・キリストが私に代わって死んで下さったという事、そして、今もこれからも私を救い続けて下さるためによみがえられた事を事実として認め、受入れました。」その後、信仰告白、洗礼の恵みにあずかりました。それから11年間、家族を棄ててでも求めたかった「真理」を家族の愛を通して与えて下さった神様の奇しき恵みを今しみじみと思いながら、神様から託されたこの真理「イエスキリストの十字架と復活」の証人として人生の終りまで走り抜けたいと願っています。ハレルヤ。このような証しは元JWだけではありません。

 

②夫婦とは

聖書は人間に 家族、人生の土台はキリストである。縦軸が神キリスト(教会)である。

では横軸(人と人との関係)で最も重要な関係、第一の関係は夫婦なのです。なぜなら、夫婦だけは一つだからです。「それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。」創世記2:24 「一体とは一つの肉となった。」の意味があり、家族親戚で唯一血がつながっていないにもかかわらず、なぜ、聖書は第一の人間関係と述べているのでしょうか。それは神ご自身が結び合わせた関係だからです。さらに人格において一つの関係だからです。その関係でまず、初めに、妻からその役割を聖書は述べています。

 

③妻の役割・・「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。」

エペソ5:22

ここで注目しなければならないのは「主に従うように」と言う家庭の土台が記されています。主とは命を十字架で捨て死に勝利されたキリストです。キリストとの関係がまず、第一にあることが大切です。このキリストに自発的に従うように夫に従いなさい。ここもキリストと教会との関係で述べています。聖書はキリストが花婿で、教会は花嫁とたとえています。教会のかしらがキリストであるように、妻はかしらである夫に従いなさい。」と勧めています。従うとは「耳をそばだたせて聞く」という意味。これは秩序の問題です。この時、本来あるべき姿となる。列車がレールとダイヤに従って走る時、スムーズに目的地に到着するように、妻は幸福を得る。夫がまだ、キリスト信仰を持たれていない場合はどうでしょうか。自分の夫とわざわざ記しているのは他人の夫に目移りするからです。他の人の夫に従わないように。

1ペテロ3:1-4「同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。それは、あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです。

あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものではなく、むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人柄を飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。」つまり、言葉の伝道よりも生活によるあかしなのです。清い「自分の夫をうやまう」おそれかしこむ「純真な」と言う意味。思いやりがある妻に夫は引かれて行く。食事、衣服、性生活も大切ですが、その前に言葉、態度はいかがですか。従っていますか。

 

家庭のかしらは夫、家長として家族全員のことを総括した上で最終的決断を下す。

 

④夫の役割・・「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身ささげられたようにあなたがたも自分の妻を愛しなさい。」エペソ5:25・・愛の性質

JE・アダムス師(米国ウエストミンスター神学校教授)「愛のリーダーシップ」と言っています。ここもキリストが土台となっています。キリストを知ってください。崇高な、自己犠牲、受けるよりご自身を与え尽くしたキリストの愛が中心です。キリストが血をながされたのはわき腹からであった。あばら骨からとられた女性のために命を捨てられたのです。ここも夫たちよ。と述べて複数ですが、一人の自分の妻を愛しなさいと強調しているのは、妻に愛を集中しなさいといことです。愛はすべてのそむきの罪を負おう。

夫は1.自己犠牲、与える愛を示す。2.行くべき道を示す。なぜなら、一体だからです。

妻は愛されたいのです。①はなしを聞く。妻は話を聞いてほしいと願っている。上の空で聞かないで、それから、どうした、大丈夫かという同情心を持って、②やさしい語りかけ、

愛のことば、③共に過ごす。「夫たちよ。妻を愛しなさい。つらくあたってはいけません。」コロサイ3:18.洗濯ものを干したり、一緒に食後の片付けを行ったり。一番の愛は共に、教会の礼拝に出席し、賛美歌を歌い、聖書の言葉に耳を傾け安息を得ることです。妻の隣に座ってくださいね。

神が与える安息に与ってこそ、妻を愛し、子どもを育てることが出来る。そこに仕事への力が与えられる。

1ペテロ3:7「同じように、夫たちよ。妻が女性であって、自分より弱い器だということをわきまえて妻と共に生活し、いのちの恵みを受け継ぐものとして尊敬しなさい。それはあなたがたの祈りが妨げられないためです。」

 

ちなみになぜ、二人は結婚したのか。そもそも結婚の目的はなにでしょうか。「あなたがたが秩序ある生活を送って、ひたすら主に奉仕できるためなのです。」1コリント7:35

 

ここに二人の安定があります。この夫婦あってこそ、子育て、仕事に力が入り、実を結ぶのです。

 

現在、お一人の方はどのようにすればよいのでしょうか。キリストに依存していく時、平安が与えられます。

今、

コミニュケションの重要性・・

 

⑤子どもの本当のしつけ・・

「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする」という約束です。父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって主の教育と訓戒によって育てなさい。」

エペソ6:1-4

子どもの親に対する従順こそ、幸せ、祝福を得るかぎです。

 子どもに向けて両親に従いなさい。ここも「主にあって」が重要になる。子ども自身が主を知る必要がある。「主イエスとの交わりの中で」「主イエスとの関係の中で」キリストに愛されている者としてです。ここでいう父、母は生ける神、キリストを知っている人を指しています。神は父、母を子どもの養育のために神の代理人として立てられました。その意味で父母を敬いなさいと述べています。

 父たちよ。(親)の使命は何でしょうか。父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって主の教育と訓戒によって育てなさい。」子どもはなぜ、怒るのでしょうか。道が示されていないからです。迷いの中にあります。父親は主から与えられた権威をもって、時には厳しさ、で子どもを訓練、教育すべきです。母親まかせにしないで、教えましょう。そのために教会に行きましょう。父親の権威によって家庭に秩序が生まれ、社会が整っていきます。

  • 教育の主体は学校でなく、親なのです。その親はなにを子どもに教えるのでしょうか。

聖書です。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、あなたの神を愛しなさい。これをあなたの子ども達に、よく教え込みなさい。あなたがたが家に座っている時も、道を歩く時も、寝る時も起きる時も、これを唱えなさい。」申命記6:5-7

主の教育(正しい方向づけ)と訓戒(知性)、あくまでも主が源です。なぜなら、間違った教えに振り回されるからです。

旧約時代、1サムエル2:18「サムエルはまだ幼く、亜麻布のエポデを身にまとい、主の前に仕えていた。」・・主のことばを聞いていた。それゆえ真実な預言者となった。

反対に同じ場所で育った、祭司エリの子どもホフニとピネハスは神へのささげ物を捕り、食べ、天幕の入口で仕えている女たちと寝ていた。2:22

それゆえ、この二人は父と共に、戦いで死んでしまう。なぜ、このようなことになったのか、「自分の息子たちが、みずからのろいをまねくようなことをしているのを知りながら、

彼らを戒めなかったからだ。」1サムエル3:13

 

 

子どもへの教育

  • 親の後姿では育たない。
  • 聖書教育が大切である。一番は教会で一緒に礼拝をする。
  • 年代に応じた訓育が大切である。愛と知恵をもって両親の協力のもとで、

家庭で親が聖書を読み、子どもの霊的成長、健康、進路、学校での生活のために祈って、朝、送り出す。たとえ、結婚しても親として、聖書によって励ます。

 

ウッド師

  • 善悪のけじめをつける
  • ルールを守らせる
  • 自立性を養う。自分の行為への責任
  • 自制心を養う。節制された愛情。

「子育ての点検・・親の愛情が十分に子どもに伝わっているか、過保護になったりしていないか。絶対的権力を持って子どもにおとな本位のあり方を要求したりしていないか。子どもに対する態度に一貫性があるか。祈りながら考え、示されたことを悔い改めましょう。具体的に実行しましょう。

参考・引用文献

 

米本和広 『カルトの子』          (文芸春秋 2000年)

クリスチャン新聞編 『ドキュメント異端』 (いのちのことば社 1985年)

ウィリアム・ウッド 『エホバの証人への伝道ハンドブック』

いのちのことば社 1990年)

  ウィリアム・ウッド 『エホバの証人の教えと聖書の教え』

                       (いのちのことば社 1990年)

  ウィリアム・ウッド 『エホバの証人への伝道とフォローアップ』

                       (いのちのことば社 1995年)

  日本イエス・キリスト教団カルト対策検討委員会 編 

『異端・カルト ハンドブック』(ベラカ出版 2010年)

ジェイ・E・アダムス 『クリスチャンの家庭生活』(いのちのことば社 1976

なぜ、今どき「『道ありき』作家:三浦綾子」なのか。青春編1

「『さあ、墨を磨るんですよ』・・・『第1頁の2行目から5行目まで墨で消してください』そう言った時、わたしはこらえきれずに涙をこぼした。かつて日本の教師たちが、外国の指令によって、国定教科書に墨をぬらさなければならないと思った者があろうか。このような屈辱的なことを、かわいい教え子たちに指示しなければならなかった教師が、日本にかつて一人でもいたであろうか。・・・・」p17。小学校の教師だった三浦綾子さんは戦前と戦後の教育が『一体どちらが正しいのか』と真剣に悩み昭和21年3月教員生活を辞する。「間違ったことを教えてかもしれないという思いは絶えずわたしを苦しめたからであった。」p20.それは「一段高い所に上った教師の言葉を、純粋な子供たちは、疑いもなく信じこんでしまう。信じられるということの責任を、敗戦によってわたしは文字通り痛感したのである。」またその頃、ある青年と婚約して結納の日に脳貧血を起こし肺結核で倒れて入院してしまったのです。何が正しいのか分からなくなった心、生徒への自責の念にさいなまれる心、「『誰かのお嫁さんにでもなろうか』という安易な態度で婚約しようとした心は病いによって入院し「やっと薄らぐような思いがした」とつづっているが、迷いの人生と不安定な心は解決しなかった。

 だれでも青春時代、多感であり多くを体験するが、心の安定、平安を得ることなく目先の楽しみと交際と勉強、仕事に埋没し、大切な心を置いたまま進む。やがて月日が流れ大人となっていくが、平安と支柱のない心は置き去りにされたままだ。教師だった三浦綾子の心は時代が変わっても、今に生きる私たちの心と同じなのです。心に堅固な柱がないのです。なので、ある時は、あの人、この人、ある思想、ある楽しみに浸ったとしても振り返れば一瞬の喜びで続かない。それは人間では解決出来ない問題だからです。答えがある聖書でイエスキリストは言われました。「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。ヨハネ福音書14章27節。心が不安定で、むなしさで生きる力を失っている人間に主イエスキリストだけが神の平安、わたしの平安を与えて下さるのです。イエスキリストの平安はだれにでも開かれていて与えられるのです。あなたも受け取ってみましょう。

佐賀市鍋島3丁目と2丁目を区切る早朝の道路から。

米国アラバマ州にある教会の方々の親善交流



ONLY  JESUS CHRIST

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

盆踊りと天国と地獄。(改訂版)

 私(入江喜久雄)は福岡県遠賀郡水巻町立屋敷で生まれました。その所は「入江さん」と外で呼ぶといろいろな入江さんが道に出て来るほど同性の方が多くいました。立屋敷という集落には八剱神社と長専寺がありました。小学生の頃、夏休みになると神社の境内でラジオ体操があり、毎日、朝早く行き体操が終わったらハガキサイズのカードに出席した証明のハンコを押してもらうのが楽しみでした。またお寺では8月半ばになるとその集落で盆踊りがあり練習をその日に向けて重ねました。集落の子どもたちは指導する大人たちと共に浴衣を着て一生懸命に練習をしたものでした。練習が終わると美味しく冷えたスイカが食べられるので楽しみにしていました。いよいよ8月半ばの盆踊りは本番を迎えます。お寺に集合して踊り、集落の家庭を回り、家の広い庭で丸くなり踊るのです。終わるとその家庭からスイカ、お菓子が出て来て数件回るとお腹いっぱいで踊り、終わるとくたくたになって帰宅したのを覚えています。さて、そんな私が大学で初めて友人の誘いでプロテスタント教会へ行き、聖書の話を聞いてキリストと出会い神を神としない罪から救われ、教会で聖書の世界観、真理を知り喜びに満たされました。さらに日本の宗教に興味を持ち勉強させていただきました。そんな時、私は初めてお盆の意味を知ったのです。

 「お盆の意味」

正式には「盂蘭盆会(うらぼんえ)」と言います。これは『さかさまに懸けられて苦しんでいる亡者(死霊)、すなわち、地獄に落ちて餓鬼道(がきどう)に苦しんでいる亡者を救う、また慰めることを意味しています。』」ですから「うらぼん」の季節が来ると「地獄の釜のふたが開いて亡者が帰って来る」(盂蘭盆経)といって精霊を迎える行事(墓参り、供え物、ナスの牛、キュウリの馬などを玄関にならべる風俗など)を行います。「盂蘭盆会はAD534年に中国で梁の武帝が行い日本に伝わりAD606年に行われ今日まで続いています。」「さかさまに懸けらて苦しんでいる」(小畑進箸「キリスト教慶弔学事典・冠&祭」第20参照)亡者をお盆の間だけ解放して再び送り出すというのです。この事を知って「えっ」と私は驚きました。小さいころ水巻町立屋敷のお寺を皮切りに各家庭を回って踊っていたのは「地獄」から来た亡者を迎えて、また送り出していたのかと愕然となりました。この輪廻転生の価値観が土台となっている事を知りました。この価値観のもと、毎年、日本、他国で「お盆」の時、人々の総移動が始まります。長期休暇で久しぶりの親戚家族と会う機会になるのはとても良く、親孝行の時でもありますが、この価値観が根底にあったのは驚くべきことではないでしょうか。この輪廻転生には多くの問題点を含んでいます。「だれがだれに、またはだれが何に生まれ変わったのか、その人格的所在は不明です。『ほろほろとなく山鳥の声きけば、父かとぞ思う母かとぞ思う』とよんだ西行法師の句は『輪廻転生』の思想から、死んだ父母への切々たる慕情を示すもので哀れです」(橋本 巽箸。「日本人と祖先崇拝」いのちのことば社.1988年。p55)この価値観を土台として生きて行くよりも有神論的価値観、「主なる神は生きておられる」価値観に生きてこそ光の人生となるのです。

 私自身は浄土真宗の家で生まれ、母親はお寺の出身でしたので盆踊り、仏壇へ様々な供え物をキリスト者になるまで行ってきましたが、聖書を知り様々な仏教行事、通過儀礼から解放されました。さらに素晴らしい喜びは死後、イエスキリストがおられる天国に行き永遠の慰めに生き、すでに信仰をもって先に旅立った方々と会えることです。

 聖書は死後の世界に行った人は毎年、地上に戻って来ると書いてあるのでしょうか。また人は死後、無になるのでしょうか。そのような事は一切、書いてありません。

 では死後の世界にどのようになっているのでしょうか。

 聖書は死後、天国か地獄どちらかの世界に人が永遠に生き続けると言っています。

ルカの福音書16章22-25節。

しばらくして、この貧しい人は死に、み使いたちによってアブラハムの懐(天国)に連れて行かれた。金持ちもまた、死んで葬られた。金持ちが、よみ(地獄)で苦しみながら目を上げると、遠くにアブラハムと、その懐にいるラザロ(神は助け)が見えた。金持ちは叫んで言った。『父アブラハムよ、私をあわれんでラザロをお送りください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてください。私はこの炎の中(地獄)で苦しくてたまりません。』するとアブラハムは言った。『子よ、思い出しなさい。おまえは生きている間、良いものを受け、ラザロは生きている間、悪いものを受けた。しかし、今は、彼はここ(天国)で慰められ、おまえは苦しみもだえている。』

この箇所には人間が知りたい死後の世界が明確に書かれています。その内容は天国か地獄かです。また死後、人は地獄から天国へはいけないということです。セカンドチャンスはありません。以下に、天国と地獄につての聖書箇所を記しましたので引き続きお読みください。

天国についての聖書箇所

見よ。神の幕屋が人々とともにある。神は人々と住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から 涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」   ヨハネの黙示録21章3~4節

また私は、天からの声がこう言うのを聞いた。『書き記せ、今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである』と。」御霊も言われる。『しかり、その人たちは、その労苦から解き放たれて安らぐことができる。彼らの行い(キリスト信仰後の行い)が、彼らとともについていくからである。』ヨハネの黙示録14:13。

また私に言われた。『事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。わたしは渇く者に、いのちの水の泉からただで飲ませる。勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。』

ヨハネの黙示録21:6-7

地獄の聖書箇所

しかし、臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らなことを行う者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者たちが受ける分は、火と硫黄の燃える池の中にある。これが第二の死である。ヨハネの黙示録21章8節

彼らを惑わした悪魔は火と硫黄の池に投げ込まれた。そこには獣も偽預言者もいる。彼らは昼も夜も、世々限りなく苦しみを受ける。ヨハネの黙示録20章10節。

いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた

ヨハネの黙示録20章15節。

いかがでしょうか。あなたは死後どちらへ行きたいですか。天国は永遠の慰めを与える神がおられますが、地獄にはいません。あなたが天国か、地獄かどちらに行くのをいつ決めるのでしょうか。地上で生きている時だけです。では地上でどのようにすれば天国へ行けるのでしょうか。聖書は語っています。

エスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。』

ヨハネ福音書14章6節。

神は、実に、そのひとり子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに世(あなた)を愛された。それは御子(イエス・キリスト)を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。ヨハネ福音書3章16節。

ぜひ、キリストを信じて一緒に神と共に生きて見ませんか。あなたをお持ちしております。

佐賀市のひょうたん島公園へ妻と二人で行きました。

 

遠藤周作箸 小説「沈黙」論 小畑 進 東京基督神学校教授(後に東京基督教大学)

 私は佐賀の鍋島にて教会開拓を進めつつ佐賀三浦綾子読書会をしております。そこに様々な方々が来られ文学の質問をされます。ある時、「沈黙」の本と映画も見た方がご質問をされましたので、小畑進教授が杉並教会で牧師をしていた時に出筆された「沈黙」論を「小畑 進 著作集」第9巻「信仰随想1」(いのちのことば社、2014年)pp253~283から下川友也師の解説と共に印刷して読みました。すると多くの驚きと恵みがあり主に感謝しました。さらにインターネットで「沈黙」を検索していたところ東京基督教大学がその全文をすでに掲載していることが分かり、ブログに載せた次第です。私自身、遠藤周作氏が書かれた「沈黙」を1981年頃、神学生の時に読み心は暗くなり日本宣教の心がくじかれました。ところが小畑進教授のこの論を2014年に読んで元気になり日本宣教への心が熱くなりました。もっと早く読んでおけばと思いつつここに掲載しました。主に感謝しております。

 

https://www.tci.ac.jp/wp-content/uploads/2017/01/silence_obata_.pdf

「一番大切なゴール」・・・「最も重要な生きがい」

長崎県壱岐の島にある壱岐キリスト福音教会へ行きました。


あなたは「何のために生きていますか」ある方は自分のため、家族のため、会社のため色々でしょう。また答えが見つからずに悩んでいる人もいるでしょう。16歳の高校生がある新聞に真剣な投稿をしました。

「私の友人が飛び降り自殺しました。先生は『強くいきなければならない』と死に急ぐ若者に警告していますが『ではなんのために強く生きなければならないのか』という問いに答えてくれる人はいません。人間が生まれて、生きる目的も知らずにただ名誉や利益だけを追い求める人生であっていいのでしょうか。だれか教えて下さい。本当の生きる目的を。」と読者に問いかけました

この問いかけに応じるように今まで「人生の目的」に関する様々な本、意見が出されました。たとえば

なぜ勉強するのでしょか?なぜ努力するのか?の問いかけに対して

たくさんのことを知ると生きていく上で役に立つから

「自分の成長のため」「経済的な豊かな生活を得るため」

「自分の幸せと他人の幸せにつながる」

また、

なんのために生きるのか?に対して

仕事のために生きる。子どもため、親のため、妻のため、夫のためと生きる目的を置きます。これらの意見はそれぞれ素晴らしいです。

しかし、仕事がなくなったり、病気になって何もできなくなったり、妻、夫、子ども、孫がいなくなった場合。生きがいを失ってしまうのではないでしょうか。また目的を失っても新しい目的を持ちますが、それがなくなるとまた新しい目的と考えますが、やがて失い

不満足が残るだけです。なぜでしょうか。

すべては人間のためだからです。

「例えばあなたが、名声を得る事、良い就職に就く事、理想の結婚相手と結ばれることなど人生における目標をかかげて、これらを達成すれば圧倒的な深い心の慰めと充足感が得られると信じているとしましょう。その場合、あなたは日々の生活の中でもその目標を見つめて歩むことになります。なぜなら、その目標を達成することが、神よりも深い満足感を与えてくれるとおもっているからです」 ところが神(聖書の神)以外のそれらの目標を達成したとたん新しい目標を求めるのはどうしてでしょうか。例えばほしかった車を高価な値段で買ったとしても、しばらくすると、また新しい車が欲しくなるのはどうしてでしょうか。良い仕事に就きたいと思って勉学に励み、希望の就職先に就いても、しばらくすると「こんなはずではなかった」となるのはどうしてでしょうか。

また目標の大学、会社に不合格となった場合、不満を残したままの人生で終わってしまいます。また

 自分なりに目標設定して懸命に生きても、人間関係でひどく悩んで生きる力を失ったりします。「立派な人として生きて行きたい」と心で決断しても、意見の行き違いや感情のもつれで憎んだり、ねたんだり、また心から知人を助けることができず悩み苦しみます。

そして生きがいを失ってしまいます。なぜでしょうか。

それは、これらの目標は人生の上での身近な目標であってすべての人を満たす根本的な目標ではないという事です。ではすべての人の一番大切な目的、目標、ゴールは何でしょうか。

 

このように自分や人のために「人生の目的、目標」を設定すると、たとえ素晴らしい目的であっても相対的なので「真の人生の目的」を発見することはないのです。では究極な目的、目標はどこにあるのでしょうか。

ウェストミンスター小教理問答」というキリスト教の信仰問答書があります。その問1に

「人のおもな目的は、何ですか」とあり

答えは「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです」と書かれています。

ここでは、一般的な「生きがい」や「人生の幸福」を語っているのではありません。「『おもな』とは第一、または一番大切な、という意味です。」人間の根本的な問いから始めています。

「『目的』とはゴールとか目当てです。野球やサッカー選手の『目的』は相手チームより多く得点をあげ勝つことです。」人生に一番大切なゴールまたは目標を人が持つと生きがいが起こるのです。

例えば、希望する大学、会社に入れなかったり、恋愛がうまくいかなかったりして

もキリストが言われた「わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからです」(聖書)のみ言葉で立ち上がることができます。

また

吉野源一郎作の「君たちは、どう生きるか」で主人公のコペル君が友達関係で悩いんでいた時、おじさんが書いたノートに「しかし、コペル君、自分が誤っていた場合にそれを男らしく認め、そのために苦しむということは、それこそ、天地の間で、ただ人間だけができることなんだよ。」・・・「誤りは真理に対して、ちょうど睡眠がめざめに対すると、同じ関係にある。人が誤りから覚めて、よみがえったように再び真理に向かうのを、私は見たことがある」とゲーテの言葉で結びます。人は自分の誤りを認める力、真理に向かう力を持っています。

 このように人は自分を含めて人のために生きる時に誤りに直面するのです。その時、その誤りを認めるだけでなく、ゲーテが語った真理に向かうのです。では真理とはなにでしょうか。ドイツの小説家、詩人であったゲーテが言いました。「人類の知的文化が進歩しようと、自然科学が進んでその広さと深さとを加えようと、人類の心がその望むままに広くなろうと、福音者から輝き出るキリストの高さと道徳的修練を越えて行くことはないであろう」

ゲーテが語る真理とはイエス・キリストご自身なのです。

エスは彼(弟子トマス)に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(聖書)

 

作家の三浦綾子さんの小説「塩狩峠」には次のようなことばがあります。

「信夫は、流れる雲をながめながら、人間の心の不確かさにいまさらながらに驚いていた。(あの雲のように、自分もまた、どこからきてどこへ行くのかわからないのだ。)信夫はそんなことを思うと、ひどくさびしかった。何の目的もなく流れている雲と、何の目的もなくさすらっているような自分が、あまりにも同じように思えてならない。何だか生きていることがむなしいような気がしてきた。」(p263)人間が人生の本当の目的を見いだせない心を描いています。

またあなたはどこから来てどこへ行きますか?これは人間にとって最も重要な

質問なのです。どこから来たのかが分からなければ、私たちがなぜ存在し、どこへ行くのかもわかりません。死んだあとどこに行くのでしょうか。それが分からなければ不安が一杯で夜も眠れません。答えがここにあります。

すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。」ローマ11:36。人は神から来て神に至るのです。

 

多くを獲得しようと人は汗を流しますが、つかめない現実があります。地上のものは必要ですが、つかめません。「金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまたむなしい」(聖書:伝道者の書5:10)人は何に満足するのでしょうか、それは神ご自身です。人は心が欠乏するから衣食住、人との交わりで満たそうとしますが心は渇くばかりです。

心が「むなしい」とはなんでしょうか。旧約聖書の伝道者の書2章4~11節でイスラエルのソロモン王は言いました。

「 私は自分の事業を拡張し、自分のために邸宅を建て、いくつものぶどう畑を設け、いくつもの庭と園を造り、そこにあらゆる種類の果樹を植えた。木の茂った森を潤すためにいくつもの池を造った。私は男女の奴隷を得、家で生まれた奴隷も何人もいた。私は私より前にエルサレムにいただれよりも、多くの牛や羊を所有していた。私はまた、自分のために銀や金、それに王たちの宝や諸州の宝も集めた。男女の歌い手を得、人の子らの快楽である、多くの側女を手に入れた。

こうして私は偉大な者となった。私より前にエルサレムにいただれよりも、しかも、私の知恵は私のうちにとどまった。自分の目の欲するものは何も拒まず、心の赴くままに、あらゆることを楽しんだ。これが、あらゆる労苦から受ける私の分であった。

しかし、私は自分が手がけたあらゆる事業と、そのために骨折った労苦を振り返った。見よ。すべてはむなしく、風をおうようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。」

「むなしい」とはヘブル語で「からっぽ」「息、蒸気」の意味で「つかみどころのない」「自分で自分をコントロール」できない状態を言います。この解決は地上、日の下にはないが日の上にはあるのです。それは神ご自身です。この神はむなしい心を一新し祝福してくださるのです。この神と交わる道はただ一つなのです。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」と言われたイエスキリストです。キリストが十字架で流した罪のない血は人、あなたの罪をゆるします。そもそも「むなしさ」は神様に対する背きの罪の結果です。その罪のゆるしが十字架の血です。そしてこの方に対して自分の罪を悔い改めて主を信じた時、救われ「むなしさ」から解放され喜びに満たされます。(使徒20:21)

  聖書には「キリストがすべての人々のために死なれた」と書いています。「私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎(罪:自分中心)をキリストに負わせた(身に引き受けさせた)」(聖書)イエス・キリストは、すべての人のそむきの罪を身に引きて、十字架で身代わりとなって罪の罰を受けて血を流してくださったのです。キリストはすべての人から「さげすまれ、のけ者にされ、私たちのそむきのために」殺されましたが、3日後に死の壁を突き破り新しい肉体で復活しました。そしてキリストは今も生きておられて、罪を悔い改めて主を信じる者には罪のゆるしを与え、最も重要な生きがいと神の祝福を与えてくださるのです。

聖書は言います。

キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。」(聖書)

これこそ、聖書が語る「一番大切な目的、ゴールです」それは具体的にキリスト教会の礼拝に出席し聖書のみ言葉を聞き礼拝し 集った方々と互いに祈り交わり、主を明らかにすることなのです。

あなたも「一番大切なゴール」を見出すために、ぜひ日曜礼拝にご出席くださいますように。「佐賀バイブルチャーチ」のホームページからお入りください。

田植え真っ最中の佐賀市鍋島2丁目付近。広い空と自然いっぱいの佐賀は素敵です。

 

なぜ、今も「塩狩峠」なのでしょうか。

この映画を上映したところ約50年前制作にもかかわらず177名の方々が来られました。2024年4月14日

 

  それは、この本には人間が生きて行くために必要な事柄の5つが書かれているからです。

さて、小説「塩狩峠」(平成23年6月15日90刷。新潮文庫)の内容に入りましょう。

永野信夫(長野政雄)は母キリスト者のもとで育ちましたが、姑のきつい態度によって母は家を出て行かなければなりませんでした。その後、信夫は父と厳格な祖母によって育てられたが、小学生の時、祖母が他界したため、母と妹が東京本郷の家に戻ってきました。

その後永野は成人し裁判所で働きましたが、幼馴染の吉川の勧めで札幌の鉄道員となりました。その吉川の妹がふじ子でした。ふじ子は肺病で片足を引きづって生活していましたが美しい人格でした。25歳を過ぎた頃、上司の名倉から縁談が信夫にありました。その相手は上司の名倉の娘でしたが、信夫はふじ子の人格とその言動に惹かれその縁談を断り、ふじ子と結婚する決断をします。

以下、作家の三浦綾子さんが「塩狩峠」で問題提起している主要な箇所を記してみました。

  1. 人間の心

「吉川君。ぼくは性欲に関する限り、決して一生自由人となることができないような気がする。幾度か、性的なあやまちを犯しそうな不安すら感ずる。君、どうか、ぼくを笑わないでくれ。そして、ぼくにこのことから自由になる道をおしえてくれないだろうか」pp158-159

性欲だけではなく、汚れた欲望からの自由を正面から取りあげています。

 

問:あなたは自分で自分をコントロールできますか

聖書の答え:できません。

内側から、人の心の中から、悪い考えが出てきます。みだらな行い、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪行、あざむき、好色、ねたみ、ののしり、高慢、おろかさで、これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」(マルコ7:21-23)

 

問:ではどうすれば自分を正しくできるのですか。

聖書:「人はだれでも、律法を行うことによっては神の前に義とみとめられないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。 しかし、今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。」ローマ3:20~22

 

  1. 原罪

「人間って恐ろしいものね。わたしだって時と場合によっては、ずい分やさしくもなるけれど、自分でもいやにあるほど意地悪にもなるわ」p185

「人間てね、その時その時で、自分でも思いがけないような人間に、変わってしまうこともあるのです」p187

「だれにも知られない、奥深い心の中でこそ、ほんとうに罪というものが育つのではないだろうか」p190

「それは勤勉で自制的な、そして向上しようとする自分の姿ではなく、どこまでも堕ちて行きたいような、いく分ふてぶてしい、すさんだもう一人の自分の姿であった」p264

「わたくしこそ、ほんとうに助けてもらわなければならない罪人だったのです。そして、あのよきサマリヤ人は、実に神のひとり子イエス・キリストであったと気がついたのです。それなのに、わたしくしは傲慢にも、神の子の地位に自分を置き、友人を見下していたのでした。いかに神を認めないということが、大いなる罪であるかをわたくしは体験しました」

PP364‐365.

多くの人が見過ごす原罪を明確に描いています。

問:原罪とは。罪の普遍性とは。

聖書の答え:「私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって

行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた」イザヤ53:6.

 

私たちはみな、汚れた者のようになり、その義はみな、不潔な衣のようです。

私たちはみな、木の葉のように枯れ、その咎(とが)は風のように私たちを

吹きあげます」イザヤ64:6

問:あなたの心はどうですか。

人を憎んだり、見下したりする心を直視したことがありますか

その心を変えて下さる聖書のみ言葉

聖書:

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」マタイ11章28節。

御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」1ヨハネ1章7節。

「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」2コリント5章17節。

 

  1. 自分の存在

「(あの雲のように、自分もまた、どこから来てどこへ行くのかわからないのだ)信夫はそんなことを思うと、ひどく寂しかった。何の目的もなく流れている雲と、何の目的もなくこの人生をさすらっているような自分が、あまりにも同じように思えてならない。何だか生きていることがむなしいような気がしてきた。」p263

人生の本当の目的を見いだせない心を描いています。

 

問:あなたは人生の本当の目的を見出しましたか?

あなたはどこから来てどこへ行きますか?これは人間にとって最も重要な

質問なのです。

どこから来たのかが分からなければ、私たちがなぜ存在し、

どこへ行くのかもわかりません。

コーヒーカップはコーヒーを飲むために造られました。

では人間は何のためにつくられたのでしょうか。自分は何の目的につくられたのでしょうか。何をするために生まれたのでしょうか?自転車に設計者、造った方がいるように、人間を、あなたをお造りになった方がおられるのです。その方に聞いてみる以外にありません。その方を書いているのが聖書なのです。それだけではありません。人間がどのように生きるのかが書いてあるのです。

人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」と書いてある。」マタイ4:4

すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。」ローマ11:36

キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。

2コリント5:15

 

  1. 死の問題

「(おれもおばあさまや、おとうさまのように、何時とも知らぬ時、突然死んでしまうのではないだろうか)信夫は恐怖した。父の死の寸前まで、信夫の心を占めていたのは性欲の問題であった。しかし今、信夫にとって最も大いなる問題は死となってしまった。・・・

(これは生きている手だ)と信夫は思った。しかしこの手が、いつか冷たくなり、もはや動かぬ手となることのある日を信夫は思った。信夫は親指から順に指をおり、そして開いてみた。その時、ハッキリと信夫は、人間は必ず死ぬものであることを納得した。(どうして自分が死ぬものであるというこの人生の一大事を、今まで確かに知ることができなかったのだろう。)p169 と納得。

 

問:あなたは人生の一大事である自分が死ぬ存在であることを意識していますか。

答え:

ちょうど、一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がったのと同様に」ローマ5:12

罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」ローマ6:23

エスは彼女に言われた。『わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。このことを信じますか。』彼女はイエスに言った。『はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております』」ヨハネ11:25-27

 

 

  1. 人格の尊さ

「ふじ子さん、人間にとって一番大事なものは、体だと思うんですか。ぼくはそうは思いません。ぼくには体よりも心のほうが大事です。」「ありがとう・・でも・・」「何がでもなんです。人間が人間であることのしるしは、その人格にあるはずですよ。手がなくても、目がなくても、口がきけなくても、人間としての大事な心さえ立派であれば、それが立派な人間と言えるのじゃないですか。病気のことなど決して卑下してはいけませんよ。あなたにはだれにも真似のできないやさしや、純真さがあるのですからね」信夫は熱心に言った。」pp349-350.

問:あなたは人格の美しさとは何でしょうか。

聖書の答え:それは神の霊(聖霊、御霊)がキリストを信じる人(ヨハネ7:37~39a「エスは立ち上がり、大きな声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。』に降ると人格が美しくなります。

 

問:どのように人格が美しくなるのですか?

聖書の答え:以下の御霊の実を結びます。

御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」

ガラテヤ5:22‐23

 

塩狩峠」の続き。・・・・

明日の結納のために旭川から札幌に行く途中、「塩狩峠」で大変なことが起こりました。友人も、東京の知人も乗った客車が機関車から外れ、急こう配を下ったのです。

曲がりカーブがいくつもある手前までハンドブレーキで止めるが止まらないのです。このままだと乗客が死んでしまうかもしれないと思った永野信夫は自分の身を投げ出しました。すると列車が止まったのです。ただ、そこには真っ白な雪に真っ赤な鮮血が飛び散っていたのです。永野信夫が死んだ知らせがすぐに吉川からふじ子のもとに届き、呆然と立ち尽くすふじ子でした。その後、教会で葬儀が行われました。当時、永野信夫の死は大きく知らされ、反響を呼びました。四十九日が終わり、吉川とふじ子は永野信夫が死んだ場所に行き花を手向けました。そこでふじ子は線路に伏せ泣いたのでした。

 

 確かにこの小説はキリスト信仰による人格が特徴です。また人の心を変えた聖書のみ言葉が随所にちりばめられています。永野の死は確かに感動を与えますが、登場人物の心の葛藤、心の有様を深く描いている箇所は見逃せません。人は「みな罪びと」と、その罪の身代わりに十字架で死なれ三日後に復活したキリストを信じる信仰者とその心が描かれています。この信仰から永野の列車での「犠牲の死」が浮かんで来ます。誰もが生きたい、何のために生きるのかと問います。その前に生きる原動力、人を変えるキリストご自身が浮かび上がって来ます。

ここまで隣人愛を与えてくださる聖であり、愛なるキリストが存在したからこそ、永野信夫は列車に飛び込むことができました。

さて、作家三浦綾子はなぜ、この小説を書いたのでしょうか。

三浦綾子氏は旭川六条教会員であり、同じ教会員に「長野政雄」氏がいました。藤原栄吉氏から彼の生涯の話を聞き「わたしは長野政雄氏の信仰のすばらしさに叩きのめされたような気がした。深く激しい感動であった。『そうか、こんな信仰の先輩が、わたしたたちの教会に、現実に生きておられたのか』」と「あとがき」p441に記しています。

「信仰のすばらしさ」に感動し「塩狩峠」を三浦綾子氏は書いたと私は知りました。

同時に三浦綾子氏のキリスト信仰がここに描かれています。「ヤソ教」の誤解偏見を説く努力が随所にみられます。その信仰とは人には原罪があり、その原罪をすべて身に引き受けて死んだ罪なきキリストに対してもつものです。罪の償いがキリストにあります。そして復活したキリストが主を信仰する人へ罪のゆるしを適用して下さり「あなたの罪はゆるされた」と言われるのです。この救いは過去の罪のゆるしだけではなく、神と人を愛する人間へと変えてゆきます。すなわち、生ける神様と交わりの回復、家族、友人、知人との平和の回復へ変えて行くのです。

 あなたも聖書からキリストご自身をぜひ知って行きましょう。ご連絡を「佐賀バイブルチャーチ」のホームページから下さいますように。

(佐賀三浦綾子読書会 世話人 入江 喜久雄)

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