佐賀バイブルチャーチの入江喜久雄牧師のブログ

佐賀市鍋島へ引っ越しブログを再び始めました。よろしくお願いします。

なぜ、今どき「『道ありき』作家:三浦綾子」なのか。青春編1

「『さあ、墨を磨るんですよ』・・・『第1頁の2行目から5行目まで墨で消してください』そう言った時、わたしはこらえきれずに涙をこぼした。かつて日本の教師たちが、外国の指令によって、国定教科書に墨をぬらさなければならないと思った者があろうか。このような屈辱的なことを、かわいい教え子たちに指示しなければならなかった教師が、日本にかつて一人でもいたであろうか。・・・・」p17。小学校の教師だった三浦綾子さんは戦前と戦後の教育が『一体どちらが正しいのか』と真剣に悩み昭和21年3月教員生活を辞する。「間違ったことを教えてかもしれないという思いは絶えずわたしを苦しめたからであった。」p20.それは「一段高い所に上った教師の言葉を、純粋な子供たちは、疑いもなく信じこんでしまう。信じられるということの責任を、敗戦によってわたしは文字通り痛感したのである。」またその頃、ある青年と婚約して結納の日に脳貧血を起こし肺結核で倒れて入院してしまったのです。何が正しいのか分からなくなった心、生徒への自責の念にさいなまれる心、「『誰かのお嫁さんにでもなろうか』という安易な態度で婚約しようとした心は病いによって入院し「やっと薄らぐような思いがした」とつづっているが、迷いの人生と不安定な心は解決しなかった。

 だれでも青春時代、多感であり多くを体験するが、心の安定、平安を得ることなく目先の楽しみと交際と勉強、仕事に埋没し、大切な心を置いたまま進む。やがて月日が流れ大人となっていくが、平安と支柱のない心は置き去りにされたままだ。教師だった三浦綾子の心は時代が変わっても、今に生きる私たちの心と同じなのです。心に堅固な柱がないのです。なので、ある時は、あの人、この人、ある思想、ある楽しみに浸ったとしても振り返れば一瞬の喜びで続かない。それは人間では解決出来ない問題だからです。答えがある聖書でイエスキリストは言われました。「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。ヨハネ福音書14章27節。心が不安定で、むなしさで生きる力を失っている人間に主イエスキリストだけが神の平安、わたしの平安を与えて下さるのです。イエスキリストの平安はだれにでも開かれていて与えられるのです。あなたも受け取ってみましょう。

佐賀市鍋島3丁目と2丁目を区切る早朝の道路から。

米国アラバマ州にある教会の方々の親善交流



ONLY  JESUS CHRIST

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

盆踊りと天国と地獄。(改訂版)

 私(入江喜久雄)は福岡県遠賀郡水巻町立屋敷で生まれました。その所は「入江さん」と外で呼ぶといろいろな入江さんが道に出て来るほど同性の方が多くいました。立屋敷という集落には八剱神社と長専寺がありました。小学生の頃、夏休みになると神社の境内でラジオ体操があり、毎日、朝早く行き体操が終わったらハガキサイズのカードに出席した証明のハンコを押してもらうのが楽しみでした。またお寺では8月半ばになるとその集落で盆踊りがあり練習をその日に向けて重ねました。集落の子どもたちは指導する大人たちと共に浴衣を着て一生懸命に練習をしたものでした。練習が終わると美味しく冷えたスイカが食べられるので楽しみにしていました。いよいよ8月半ばの盆踊りは本番を迎えます。お寺に集合して踊り、集落の家庭を回り、家の広い庭で丸くなり踊るのです。終わるとその家庭からスイカ、お菓子が出て来て数件回るとお腹いっぱいで踊り、終わるとくたくたになって帰宅したのを覚えています。さて、そんな私が大学で初めて友人の誘いでプロテスタント教会へ行き、聖書の話を聞いてキリストと出会い神を神としない罪から救われ、教会で聖書の世界観、真理を知り喜びに満たされました。さらに日本の宗教に興味を持ち勉強させていただきました。そんな時、私は初めてお盆の意味を知ったのです。

 「お盆の意味」

正式には「盂蘭盆会(うらぼんえ)」と言います。これは『さかさまに懸けられて苦しんでいる亡者(死霊)、すなわち、地獄に落ちて餓鬼道(がきどう)に苦しんでいる亡者を救う、また慰めることを意味しています。』」ですから「うらぼん」の季節が来ると「地獄の釜のふたが開いて亡者が帰って来る」(盂蘭盆経)といって精霊を迎える行事(墓参り、供え物、ナスの牛、キュウリの馬などを玄関にならべる風俗など)を行います。「盂蘭盆会はAD534年に中国で梁の武帝が行い日本に伝わりAD606年に行われ今日まで続いています。」「さかさまに懸けらて苦しんでいる」(小畑進箸「キリスト教慶弔学事典・冠&祭」第20参照)亡者をお盆の間だけ解放して再び送り出すというのです。この事を知って「えっ」と私は驚きました。小さいころ水巻町立屋敷のお寺を皮切りに各家庭を回って踊っていたのは「地獄」から来た亡者を迎えて、また送り出していたのかと愕然となりました。この輪廻転生の価値観が土台となっている事を知りました。この価値観のもと、毎年、日本、他国で「お盆」の時、人々の総移動が始まります。長期休暇で久しぶりの親戚家族と会う機会になるのはとても良く、親孝行の時でもありますが、この価値観が根底にあったのは驚くべきことではないでしょうか。この輪廻転生には多くの問題点を含んでいます。「だれがだれに、またはだれが何に生まれ変わったのか、その人格的所在は不明です。『ほろほろとなく山鳥の声きけば、父かとぞ思う母かとぞ思う』とよんだ西行法師の句は『輪廻転生』の思想から、死んだ父母への切々たる慕情を示すもので哀れです」(橋本 巽箸。「日本人と祖先崇拝」いのちのことば社.1988年。p55)この価値観を土台として生きて行くよりも有神論的価値観、「主なる神は生きておられる」価値観に生きてこそ光の人生となるのです。

 私自身は浄土真宗の家で生まれ、母親はお寺の出身でしたので盆踊り、仏壇へ様々な供え物をキリスト者になるまで行ってきましたが、聖書を知り様々な仏教行事、通過儀礼から解放されました。さらに素晴らしい喜びは死後、イエスキリストがおられる天国に行き永遠の慰めに生き、すでに信仰をもって先に旅立った方々と会えることです。

 聖書は死後の世界に行った人は毎年、地上に戻って来ると書いてあるのでしょうか。また人は死後、無になるのでしょうか。そのような事は一切、書いてありません。

 では死後の世界にどのようになっているのでしょうか。

 聖書は死後、天国か地獄どちらかの世界に人が永遠に生き続けると言っています。

ルカの福音書16章22-25節。

しばらくして、この貧しい人は死に、み使いたちによってアブラハムの懐(天国)に連れて行かれた。金持ちもまた、死んで葬られた。金持ちが、よみ(地獄)で苦しみながら目を上げると、遠くにアブラハムと、その懐にいるラザロ(神は助け)が見えた。金持ちは叫んで言った。『父アブラハムよ、私をあわれんでラザロをお送りください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてください。私はこの炎の中(地獄)で苦しくてたまりません。』するとアブラハムは言った。『子よ、思い出しなさい。おまえは生きている間、良いものを受け、ラザロは生きている間、悪いものを受けた。しかし、今は、彼はここ(天国)で慰められ、おまえは苦しみもだえている。』

この箇所には人間が知りたい死後の世界が明確に書かれています。その内容は天国か地獄かです。また死後、人は地獄から天国へはいけないということです。セカンドチャンスはありません。以下に、天国と地獄につての聖書箇所を記しましたので引き続きお読みください。

天国についての聖書箇所

見よ。神の幕屋が人々とともにある。神は人々と住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から 涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」   ヨハネの黙示録21章3~4節

また私は、天からの声がこう言うのを聞いた。『書き記せ、今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである』と。」御霊も言われる。『しかり、その人たちは、その労苦から解き放たれて安らぐことができる。彼らの行い(キリスト信仰後の行い)が、彼らとともについていくからである。』ヨハネの黙示録14:13。

また私に言われた。『事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。わたしは渇く者に、いのちの水の泉からただで飲ませる。勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。』

ヨハネの黙示録21:6-7

地獄の聖書箇所

しかし、臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らなことを行う者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者たちが受ける分は、火と硫黄の燃える池の中にある。これが第二の死である。ヨハネの黙示録21章8節

彼らを惑わした悪魔は火と硫黄の池に投げ込まれた。そこには獣も偽預言者もいる。彼らは昼も夜も、世々限りなく苦しみを受ける。ヨハネの黙示録20章10節。

いのちの書に記されていない者はみな、火の池に投げ込まれた

ヨハネの黙示録20章15節。

いかがでしょうか。あなたは死後どちらへ行きたいですか。天国は永遠の慰めを与える神がおられますが、地獄にはいません。あなたが天国か、地獄かどちらに行くのをいつ決めるのでしょうか。地上で生きている時だけです。では地上でどのようにすれば天国へ行けるのでしょうか。聖書は語っています。

エスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。』

ヨハネ福音書14章6節。

神は、実に、そのひとり子(イエス・キリスト)をお与えになったほどに世(あなた)を愛された。それは御子(イエス・キリスト)を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。ヨハネ福音書3章16節。

ぜひ、キリストを信じて一緒に神と共に生きて見ませんか。あなたをお持ちしております。

佐賀市のひょうたん島公園へ妻と二人で行きました。

 

遠藤周作箸 小説「沈黙」論 小畑 進 東京基督神学校教授(後に東京基督教大学)

 私は佐賀の鍋島にて教会開拓を進めつつ佐賀三浦綾子読書会をしております。そこに様々な方々が来られ文学の質問をされます。ある時、「沈黙」の本と映画も見た方がご質問をされましたので、小畑進教授が杉並教会で牧師をしていた時に出筆された「沈黙」論を「小畑 進 著作集」第9巻「信仰随想1」(いのちのことば社、2014年)pp253~283から下川友也師の解説と共に印刷して読みました。すると多くの驚きと恵みがあり主に感謝しました。さらにインターネットで「沈黙」を検索していたところ東京基督教大学がその全文をすでに掲載していることが分かり、ブログに載せた次第です。私自身、遠藤周作氏が書かれた「沈黙」を1981年頃、神学生の時に読み心は暗くなり日本宣教の心がくじかれました。ところが小畑進教授のこの論を2014年に読んで元気になり日本宣教への心が熱くなりました。もっと早く読んでおけばと思いつつここに掲載しました。主に感謝しております。

 

https://www.tci.ac.jp/wp-content/uploads/2017/01/silence_obata_.pdf

「一番大切なゴール」・・・「最も重要な生きがい」

長崎県壱岐の島にある壱岐キリスト福音教会へ行きました。


あなたは「何のために生きていますか」ある方は自分のため、家族のため、会社のため色々でしょう。また答えが見つからずに悩んでいる人もいるでしょう。16歳の高校生がある新聞に真剣な投稿をしました。

「私の友人が飛び降り自殺しました。先生は『強くいきなければならない』と死に急ぐ若者に警告していますが『ではなんのために強く生きなければならないのか』という問いに答えてくれる人はいません。人間が生まれて、生きる目的も知らずにただ名誉や利益だけを追い求める人生であっていいのでしょうか。だれか教えて下さい。本当の生きる目的を。」と読者に問いかけました

この問いかけに応じるように今まで「人生の目的」に関する様々な本、意見が出されました。たとえば

なぜ勉強するのでしょか?なぜ努力するのか?の問いかけに対して

たくさんのことを知ると生きていく上で役に立つから

「自分の成長のため」「経済的な豊かな生活を得るため」

「自分の幸せと他人の幸せにつながる」

また、

なんのために生きるのか?に対して

仕事のために生きる。子どもため、親のため、妻のため、夫のためと生きる目的を置きます。これらの意見はそれぞれ素晴らしいです。

しかし、仕事がなくなったり、病気になって何もできなくなったり、妻、夫、子ども、孫がいなくなった場合。生きがいを失ってしまうのではないでしょうか。また目的を失っても新しい目的を持ちますが、それがなくなるとまた新しい目的と考えますが、やがて失い

不満足が残るだけです。なぜでしょうか。

すべては人間のためだからです。

「例えばあなたが、名声を得る事、良い就職に就く事、理想の結婚相手と結ばれることなど人生における目標をかかげて、これらを達成すれば圧倒的な深い心の慰めと充足感が得られると信じているとしましょう。その場合、あなたは日々の生活の中でもその目標を見つめて歩むことになります。なぜなら、その目標を達成することが、神よりも深い満足感を与えてくれるとおもっているからです」 ところが神(聖書の神)以外のそれらの目標を達成したとたん新しい目標を求めるのはどうしてでしょうか。例えばほしかった車を高価な値段で買ったとしても、しばらくすると、また新しい車が欲しくなるのはどうしてでしょうか。良い仕事に就きたいと思って勉学に励み、希望の就職先に就いても、しばらくすると「こんなはずではなかった」となるのはどうしてでしょうか。

また目標の大学、会社に不合格となった場合、不満を残したままの人生で終わってしまいます。また

 自分なりに目標設定して懸命に生きても、人間関係でひどく悩んで生きる力を失ったりします。「立派な人として生きて行きたい」と心で決断しても、意見の行き違いや感情のもつれで憎んだり、ねたんだり、また心から知人を助けることができず悩み苦しみます。

そして生きがいを失ってしまいます。なぜでしょうか。

それは、これらの目標は人生の上での身近な目標であってすべての人を満たす根本的な目標ではないという事です。ではすべての人の一番大切な目的、目標、ゴールは何でしょうか。

 

このように自分や人のために「人生の目的、目標」を設定すると、たとえ素晴らしい目的であっても相対的なので「真の人生の目的」を発見することはないのです。では究極な目的、目標はどこにあるのでしょうか。

ウェストミンスター小教理問答」というキリスト教の信仰問答書があります。その問1に

「人のおもな目的は、何ですか」とあり

答えは「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです」と書かれています。

ここでは、一般的な「生きがい」や「人生の幸福」を語っているのではありません。「『おもな』とは第一、または一番大切な、という意味です。」人間の根本的な問いから始めています。

「『目的』とはゴールとか目当てです。野球やサッカー選手の『目的』は相手チームより多く得点をあげ勝つことです。」人生に一番大切なゴールまたは目標を人が持つと生きがいが起こるのです。

例えば、希望する大学、会社に入れなかったり、恋愛がうまくいかなかったりして

もキリストが言われた「わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからです」(聖書)のみ言葉で立ち上がることができます。

また

吉野源一郎作の「君たちは、どう生きるか」で主人公のコペル君が友達関係で悩いんでいた時、おじさんが書いたノートに「しかし、コペル君、自分が誤っていた場合にそれを男らしく認め、そのために苦しむということは、それこそ、天地の間で、ただ人間だけができることなんだよ。」・・・「誤りは真理に対して、ちょうど睡眠がめざめに対すると、同じ関係にある。人が誤りから覚めて、よみがえったように再び真理に向かうのを、私は見たことがある」とゲーテの言葉で結びます。人は自分の誤りを認める力、真理に向かう力を持っています。

 このように人は自分を含めて人のために生きる時に誤りに直面するのです。その時、その誤りを認めるだけでなく、ゲーテが語った真理に向かうのです。では真理とはなにでしょうか。ドイツの小説家、詩人であったゲーテが言いました。「人類の知的文化が進歩しようと、自然科学が進んでその広さと深さとを加えようと、人類の心がその望むままに広くなろうと、福音者から輝き出るキリストの高さと道徳的修練を越えて行くことはないであろう」

ゲーテが語る真理とはイエス・キリストご自身なのです。

エスは彼(弟子トマス)に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(聖書)

 

作家の三浦綾子さんの小説「塩狩峠」には次のようなことばがあります。

「信夫は、流れる雲をながめながら、人間の心の不確かさにいまさらながらに驚いていた。(あの雲のように、自分もまた、どこからきてどこへ行くのかわからないのだ。)信夫はそんなことを思うと、ひどくさびしかった。何の目的もなく流れている雲と、何の目的もなくさすらっているような自分が、あまりにも同じように思えてならない。何だか生きていることがむなしいような気がしてきた。」(p263)人間が人生の本当の目的を見いだせない心を描いています。

またあなたはどこから来てどこへ行きますか?これは人間にとって最も重要な

質問なのです。どこから来たのかが分からなければ、私たちがなぜ存在し、どこへ行くのかもわかりません。死んだあとどこに行くのでしょうか。それが分からなければ不安が一杯で夜も眠れません。答えがここにあります。

すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。」ローマ11:36。人は神から来て神に至るのです。

 

多くを獲得しようと人は汗を流しますが、つかめない現実があります。地上のものは必要ですが、つかめません。「金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまたむなしい」(聖書:伝道者の書5:10)人は何に満足するのでしょうか、それは神ご自身です。人は心が欠乏するから衣食住、人との交わりで満たそうとしますが心は渇くばかりです。

心が「むなしい」とはなんでしょうか。旧約聖書の伝道者の書2章4~11節でイスラエルのソロモン王は言いました。

「 私は自分の事業を拡張し、自分のために邸宅を建て、いくつものぶどう畑を設け、いくつもの庭と園を造り、そこにあらゆる種類の果樹を植えた。木の茂った森を潤すためにいくつもの池を造った。私は男女の奴隷を得、家で生まれた奴隷も何人もいた。私は私より前にエルサレムにいただれよりも、多くの牛や羊を所有していた。私はまた、自分のために銀や金、それに王たちの宝や諸州の宝も集めた。男女の歌い手を得、人の子らの快楽である、多くの側女を手に入れた。

こうして私は偉大な者となった。私より前にエルサレムにいただれよりも、しかも、私の知恵は私のうちにとどまった。自分の目の欲するものは何も拒まず、心の赴くままに、あらゆることを楽しんだ。これが、あらゆる労苦から受ける私の分であった。

しかし、私は自分が手がけたあらゆる事業と、そのために骨折った労苦を振り返った。見よ。すべてはむなしく、風をおうようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。」

「むなしい」とはヘブル語で「からっぽ」「息、蒸気」の意味で「つかみどころのない」「自分で自分をコントロール」できない状態を言います。この解決は地上、日の下にはないが日の上にはあるのです。それは神ご自身です。この神はむなしい心を一新し祝福してくださるのです。この神と交わる道はただ一つなのです。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」と言われたイエスキリストです。キリストが十字架で流した罪のない血は人、あなたの罪をゆるします。そもそも「むなしさ」は神様に対する背きの罪の結果です。その罪のゆるしが十字架の血です。そしてこの方に対して自分の罪を悔い改めて主を信じた時、救われ「むなしさ」から解放され喜びに満たされます。(使徒20:21)

  聖書には「キリストがすべての人々のために死なれた」と書いています。「私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎(罪:自分中心)をキリストに負わせた(身に引き受けさせた)」(聖書)イエス・キリストは、すべての人のそむきの罪を身に引きて、十字架で身代わりとなって罪の罰を受けて血を流してくださったのです。キリストはすべての人から「さげすまれ、のけ者にされ、私たちのそむきのために」殺されましたが、3日後に死の壁を突き破り新しい肉体で復活しました。そしてキリストは今も生きておられて、罪を悔い改めて主を信じる者には罪のゆるしを与え、最も重要な生きがいと神の祝福を与えてくださるのです。

聖書は言います。

キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。」(聖書)

これこそ、聖書が語る「一番大切な目的、ゴールです」それは具体的にキリスト教会の礼拝に出席し聖書のみ言葉を聞き礼拝し 集った方々と互いに祈り交わり、主を明らかにすることなのです。

あなたも「一番大切なゴール」を見出すために、ぜひ日曜礼拝にご出席くださいますように。「佐賀バイブルチャーチ」のホームページからお入りください。

田植え真っ最中の佐賀市鍋島2丁目付近。広い空と自然いっぱいの佐賀は素敵です。

 

なぜ、今も「塩狩峠」なのでしょうか。

この映画を上映したところ約50年前制作にもかかわらず177名の方々が来られました。2024年4月14日

 

  それは、この本には人間が生きて行くために必要な事柄の5つが書かれているからです。

さて、小説「塩狩峠」(平成23年6月15日90刷。新潮文庫)の内容に入りましょう。

永野信夫(長野政雄)は母キリスト者のもとで育ちましたが、姑のきつい態度によって母は家を出て行かなければなりませんでした。その後、信夫は父と厳格な祖母によって育てられたが、小学生の時、祖母が他界したため、母と妹が東京本郷の家に戻ってきました。

その後永野は成人し裁判所で働きましたが、幼馴染の吉川の勧めで札幌の鉄道員となりました。その吉川の妹がふじ子でした。ふじ子は肺病で片足を引きづって生活していましたが美しい人格でした。25歳を過ぎた頃、上司の名倉から縁談が信夫にありました。その相手は上司の名倉の娘でしたが、信夫はふじ子の人格とその言動に惹かれその縁談を断り、ふじ子と結婚する決断をします。

以下、作家の三浦綾子さんが「塩狩峠」で問題提起している主要な箇所を記してみました。

  1. 人間の心

「吉川君。ぼくは性欲に関する限り、決して一生自由人となることができないような気がする。幾度か、性的なあやまちを犯しそうな不安すら感ずる。君、どうか、ぼくを笑わないでくれ。そして、ぼくにこのことから自由になる道をおしえてくれないだろうか」pp158-159

性欲だけではなく、汚れた欲望からの自由を正面から取りあげています。

 

問:あなたは自分で自分をコントロールできますか

聖書の答え:できません。

内側から、人の心の中から、悪い考えが出てきます。みだらな行い、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪行、あざむき、好色、ねたみ、ののしり、高慢、おろかさで、これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」(マルコ7:21-23)

 

問:ではどうすれば自分を正しくできるのですか。

聖書:「人はだれでも、律法を行うことによっては神の前に義とみとめられないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。 しかし、今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。」ローマ3:20~22

 

  1. 原罪

「人間って恐ろしいものね。わたしだって時と場合によっては、ずい分やさしくもなるけれど、自分でもいやにあるほど意地悪にもなるわ」p185

「人間てね、その時その時で、自分でも思いがけないような人間に、変わってしまうこともあるのです」p187

「だれにも知られない、奥深い心の中でこそ、ほんとうに罪というものが育つのではないだろうか」p190

「それは勤勉で自制的な、そして向上しようとする自分の姿ではなく、どこまでも堕ちて行きたいような、いく分ふてぶてしい、すさんだもう一人の自分の姿であった」p264

「わたくしこそ、ほんとうに助けてもらわなければならない罪人だったのです。そして、あのよきサマリヤ人は、実に神のひとり子イエス・キリストであったと気がついたのです。それなのに、わたしくしは傲慢にも、神の子の地位に自分を置き、友人を見下していたのでした。いかに神を認めないということが、大いなる罪であるかをわたくしは体験しました」

PP364‐365.

多くの人が見過ごす原罪を明確に描いています。

問:原罪とは。罪の普遍性とは。

聖書の答え:「私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって

行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた」イザヤ53:6.

 

私たちはみな、汚れた者のようになり、その義はみな、不潔な衣のようです。

私たちはみな、木の葉のように枯れ、その咎(とが)は風のように私たちを

吹きあげます」イザヤ64:6

問:あなたの心はどうですか。

人を憎んだり、見下したりする心を直視したことがありますか

その心を変えて下さる聖書のみ言葉

聖書:

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」マタイ11章28節。

御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」1ヨハネ1章7節。

「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」2コリント5章17節。

 

  1. 自分の存在

「(あの雲のように、自分もまた、どこから来てどこへ行くのかわからないのだ)信夫はそんなことを思うと、ひどく寂しかった。何の目的もなく流れている雲と、何の目的もなくこの人生をさすらっているような自分が、あまりにも同じように思えてならない。何だか生きていることがむなしいような気がしてきた。」p263

人生の本当の目的を見いだせない心を描いています。

 

問:あなたは人生の本当の目的を見出しましたか?

あなたはどこから来てどこへ行きますか?これは人間にとって最も重要な

質問なのです。

どこから来たのかが分からなければ、私たちがなぜ存在し、

どこへ行くのかもわかりません。

コーヒーカップはコーヒーを飲むために造られました。

では人間は何のためにつくられたのでしょうか。自分は何の目的につくられたのでしょうか。何をするために生まれたのでしょうか?自転車に設計者、造った方がいるように、人間を、あなたをお造りになった方がおられるのです。その方に聞いてみる以外にありません。その方を書いているのが聖書なのです。それだけではありません。人間がどのように生きるのかが書いてあるのです。

人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」と書いてある。」マタイ4:4

すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。」ローマ11:36

キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。

2コリント5:15

 

  1. 死の問題

「(おれもおばあさまや、おとうさまのように、何時とも知らぬ時、突然死んでしまうのではないだろうか)信夫は恐怖した。父の死の寸前まで、信夫の心を占めていたのは性欲の問題であった。しかし今、信夫にとって最も大いなる問題は死となってしまった。・・・

(これは生きている手だ)と信夫は思った。しかしこの手が、いつか冷たくなり、もはや動かぬ手となることのある日を信夫は思った。信夫は親指から順に指をおり、そして開いてみた。その時、ハッキリと信夫は、人間は必ず死ぬものであることを納得した。(どうして自分が死ぬものであるというこの人生の一大事を、今まで確かに知ることができなかったのだろう。)p169 と納得。

 

問:あなたは人生の一大事である自分が死ぬ存在であることを意識していますか。

答え:

ちょうど、一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がったのと同様に」ローマ5:12

罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」ローマ6:23

エスは彼女に言われた。『わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。このことを信じますか。』彼女はイエスに言った。『はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております』」ヨハネ11:25-27

 

 

  1. 人格の尊さ

「ふじ子さん、人間にとって一番大事なものは、体だと思うんですか。ぼくはそうは思いません。ぼくには体よりも心のほうが大事です。」「ありがとう・・でも・・」「何がでもなんです。人間が人間であることのしるしは、その人格にあるはずですよ。手がなくても、目がなくても、口がきけなくても、人間としての大事な心さえ立派であれば、それが立派な人間と言えるのじゃないですか。病気のことなど決して卑下してはいけませんよ。あなたにはだれにも真似のできないやさしや、純真さがあるのですからね」信夫は熱心に言った。」pp349-350.

問:あなたは人格の美しさとは何でしょうか。

聖書の答え:それは神の霊(聖霊、御霊)がキリストを信じる人(ヨハネ7:37~39a「エスは立ち上がり、大きな声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。』に降ると人格が美しくなります。

 

問:どのように人格が美しくなるのですか?

聖書の答え:以下の御霊の実を結びます。

御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」

ガラテヤ5:22‐23

 

塩狩峠」の続き。・・・・

明日の結納のために旭川から札幌に行く途中、「塩狩峠」で大変なことが起こりました。友人も、東京の知人も乗った客車が機関車から外れ、急こう配を下ったのです。

曲がりカーブがいくつもある手前までハンドブレーキで止めるが止まらないのです。このままだと乗客が死んでしまうかもしれないと思った永野信夫は自分の身を投げ出しました。すると列車が止まったのです。ただ、そこには真っ白な雪に真っ赤な鮮血が飛び散っていたのです。永野信夫が死んだ知らせがすぐに吉川からふじ子のもとに届き、呆然と立ち尽くすふじ子でした。その後、教会で葬儀が行われました。当時、永野信夫の死は大きく知らされ、反響を呼びました。四十九日が終わり、吉川とふじ子は永野信夫が死んだ場所に行き花を手向けました。そこでふじ子は線路に伏せ泣いたのでした。

 

 確かにこの小説はキリスト信仰による人格が特徴です。また人の心を変えた聖書のみ言葉が随所にちりばめられています。永野の死は確かに感動を与えますが、登場人物の心の葛藤、心の有様を深く描いている箇所は見逃せません。人は「みな罪びと」と、その罪の身代わりに十字架で死なれ三日後に復活したキリストを信じる信仰者とその心が描かれています。この信仰から永野の列車での「犠牲の死」が浮かんで来ます。誰もが生きたい、何のために生きるのかと問います。その前に生きる原動力、人を変えるキリストご自身が浮かび上がって来ます。

ここまで隣人愛を与えてくださる聖であり、愛なるキリストが存在したからこそ、永野信夫は列車に飛び込むことができました。

さて、作家三浦綾子はなぜ、この小説を書いたのでしょうか。

三浦綾子氏は旭川六条教会員であり、同じ教会員に「長野政雄」氏がいました。藤原栄吉氏から彼の生涯の話を聞き「わたしは長野政雄氏の信仰のすばらしさに叩きのめされたような気がした。深く激しい感動であった。『そうか、こんな信仰の先輩が、わたしたたちの教会に、現実に生きておられたのか』」と「あとがき」p441に記しています。

「信仰のすばらしさ」に感動し「塩狩峠」を三浦綾子氏は書いたと私は知りました。

同時に三浦綾子氏のキリスト信仰がここに描かれています。「ヤソ教」の誤解偏見を説く努力が随所にみられます。その信仰とは人には原罪があり、その原罪をすべて身に引き受けて死んだ罪なきキリストに対してもつものです。罪の償いがキリストにあります。そして復活したキリストが主を信仰する人へ罪のゆるしを適用して下さり「あなたの罪はゆるされた」と言われるのです。この救いは過去の罪のゆるしだけではなく、神と人を愛する人間へと変えてゆきます。すなわち、生ける神様と交わりの回復、家族、友人、知人との平和の回復へ変えて行くのです。

 あなたも聖書からキリストご自身をぜひ知って行きましょう。ご連絡を「佐賀バイブルチャーチ」のホームページから下さいますように。

(佐賀三浦綾子読書会 世話人 入江 喜久雄)

佐賀平野は2毛作で小麦が収穫され6月末から田植えが始まります。(鍋島から)

 

「むなしさから喜びの心に変えるイエス・キリスト」

 私は「むなしいなぁ。何のために生きればよいのだろうか」と青年期に悩んでいた時、友人から「教会へ行ったらいいよ」と言われプロテスタントキリスト教会の礼拝に始めて出席しました。そこで語られた「キリストは罪がなく口で偽りを語ったこともありませんでしたが、十字架で血を流しつくし殺されてしまいました。しかし三日後に墓から新しい肉体で復活し今も生きているのです」の言葉が心に残りました。  

その時、大学に行きつつも知人にさんざん裏切られ虚無的な毎日を過ごしていた私はこのイエスキリストだけは裏切らないお方だろうと考えて信じてみようと思いました。

その後、教会と聖書から自分自身が神を信じないで自分中心に生きて来た罪を悔い改めて、自分の罪の身代わりとなって死なれ復活したキリストを心に信じました。キリストに「私を助けて下さい。救って下さい」と祈りました。引き続き教会で賛美歌を歌い、聖書のみ言葉の解説を聞くたびにキリストはむなしい心を喜びの心に変えて下さり「生きていて良かった。神様は生きておられる。今日も神様に生かされている」と喜びが続いています。その後、洗礼を受けキリスト信者となりました。また牧師、伝道師となるべく神学校へ行き卒業、結婚し3人の子どもが与えられて今に至っています。このようにイエスキリストは私の心と生き方を変えてくださいました。

 

3月の素敵な佐賀平野(鍋島)は小麦がすくすく成長していました。北に目を向けると背振山脈が見えます。その向こうは福岡県です。


水野源三さんも主によって喜びの心に変えられて、次のように言っています。「キリストの御愛にふれたその時に キリストの御愛にふれたその時に 私の心は変わりました。憎しみも恨みも 霧のように消え去りました」水野さんは小学4年生の時、脳性麻痺のために身体の自由を全く失い、30歳でキリストを信じ受洗しました。彼はまばたきで自分の意志を母親が示す50音図に現わし詩を書いたのです。

聖書に登場する人々も同様にキリストは変えられました。漁師や資産家や学者の男性たち、5回の離婚経験した女性など、またかつてユダ教徒だった使徒パウロも心が変えられて「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているのは、私を愛し、私のためにご自分を与えて下さった、神の御子を信じる信仰によるのです」(聖書)と言いました。素晴らしい喜びの知らせです。あなたもキリストは聖書のみ言葉によって変えて喜びの人生へとしてくださいます。どうぞ、お気軽に礼拝へいらして下さい。

「そのなすことはすべて栄える」2024年となるために

詩篇1篇 「実を結ぶ新年」「そのなすことはすべて栄える」 2024/1/1

 京都の嵐山に行った時、観光用の人力車を見ました。若い男性が握り棒を握って観光客を後ろの座席にのせて軽快に走っているのを見ました。さて、次の言葉があります。

 「人力車の主は 車の握り棒を握らないと走れない」「読書論:小泉信三

とあるように人は御言葉を握らないと人生を走れないのです。

御言葉を握って生きる人こそ「幸いな人」です。

1節「幸いなことよ。悪しき者のはかりごとに歩まず 罪人の道に立たず あざける者の座に着かない人」ここに3つをしない人が出てきます。

  • 悪しき者(犯罪人ではなく神に従わない人)の計画、前もって考えた計画。うまくいくように、人をだます計画、狭義(戦闘の計画)一緒に歩かない。
  • 罪人(道を外れている人)の道にたたない。その道に一緒に立たない。
  • あざける者(面と向かってけいべつする言葉、態度を見せる)の座に着かない。一緒に座らない。 これらすべて習慣的な動作でした。このように消極的に語り2節で積極的に語ります。

 

2節

「主のおしえを喜びとし 昼も夜も そのおしえを口ずさむ」「喜びとする」は「粘着する。固執する。」に意味があり、1節の悪者たちのただ中で、幸いな人は心の中まで御言葉を至らせます。それは鳩のうめき声のように。(さとし)昼も夜も、その教えを口ずさむ

(静かに思う。瞑想する)つぶやく、うめく、黙想する。瞑想するのです。

イギリス国教会の聖書学者であったW・H・グリフス・トマスは

「み言葉に耳を傾ける。注意する。傾聴する、注意を払う、さらに注意を払って読む。目的をもって読むこと。」と言っています。夢うつつ想像することではなく神の導き、慰め、助言、忠告のかたち、現実に語り掛けてくださる神の御声を聞くのです。

「①からだに聖書がしみこみ、②心が聖なる思いにひたり、③心が聖なる感動に満たされ④記憶が聖なる連想に満たされる」

マシュー・ヘンリー「黙想において心がみことばを吸収し、自分のいのちの一部とする。

心の瞑想とは願い、受け入れ、降伏し明け渡し、愛する。心が真に信じるところのものを、愛と喜びを持って受取り、それをマスターし、いのちを支配させる。知性は養われる糧を集めそのなえる。瞑想において、心はそれを取って食べる。聖句暗唱です。

昼も夜も そのおしえを思い巡らす・口ずさむ人。

 

3節.その人は価値があり移植された木にたとえられます。「その人は 流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び その葉は枯れず そのなすことはすべて栄える

私は夫婦で松原湖のほとりをあるいていると青い葉が生い茂っている大きな木に出会いました。その木の根を見ると湖の水辺に浸っていました。そこに水の流れがありました。

流れのほとりに植えられた木(自然に生え出た木ではない)どこからか持ってきた木、植えられた木 。時が来ると実を結び。その葉は枯れない。そのなすことはすべてさかえる。

(成功する)と訳せます。日常生活の自分が教会で御言葉を聞く自分へと移動します。さらにそのみ言葉を口ずさむ自分になることが「流れのほとりに植えられた木」なのです。その木は成長し実がなり葉が枯れない。そのような木はないが木をたとえとしています。なぜ木にたとえたのか。人ではなく神が育てるからです。

使徒1:16「兄弟たち。イエスを捕らえた者たちを手引きしたユダについては、聖霊ダビデの口を通して前もって語った聖書のことばが実現しなければなりませんでした」とあるように聖書の御言葉は聖霊が働いて記されたのです。信仰持って御言葉を口ずさむ人には聖霊が働き「なすことはすべて栄える」のです。使徒10:44「ペテロがなおもこれらのことを話し続けていると、みことばを聞いていたすべての人々に、聖霊が下った」これらの聖書箇所から御言葉を口ずさみ、そのみ言葉を行う人は「なすことはすべて栄える」のです。聖霊が強く働くからです。しかし、

 

4節.悪しき者は最も重要なみことばがない。まさしく 風が吹き飛ばすもみがらです。「悪しき者は そうではない。まさしく 風が吹き飛ばすもみ殻だ」だから恐れてはならない。悪しき者の外見は素晴らしいが中身はない。もみがらは種がない。風邪が吹き飛ばすもみがら。中身がなく飛んでいく存在。

 

5節.「それゆえ 悪しき者はさばきに 罪人は正しい者の集いに立ちえない。」礼拝に立ち6節「まことに 正しい者の道は主が知っておられ、悪しき者の道は滅びる

だから、私たちは悪しき者たちの中にいながら、御言葉を口ずさみ行いましょう。そこには人の力をはるかに超えた神である聖霊の働きがあるのです。

 

「主のおしえを喜びとし 昼も夜も そのおしえを口ずさむ」その人は 流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び その葉は枯れず そのなすことはすべて栄える

詩篇1:2~3