佐賀バイブルチャーチの入江喜久雄牧師のブログ

佐賀市鍋島へ引っ越しブログを再び始めました。よろしくお願いします。

希望・死に対する勝利2

暑い日の教会近くの交差点、「ワシワシ」とクマゼミが泣いていました

教会開拓1周年記念礼拝の時に飾られた美しい花。



実存主義者、哲学者のハイデッカーが「人間は死へと向かう存在である」と絶望の言葉を残したが、あるキリスト者の医師は「死を考えることによってはじめて真実の生を考えることができる」と語った。それは死をはるかに凌駕する復活を言うのです。

 

1.死は自然ではなく異常です。

「ツクツクボーシ、ツクツクボーシ。・・・ジーツ」と刻みながら鳴くセミ、その死体を見て涙を流して泣く人はいないと思います。ある人は元気な時「死は怖くはない」と、またある人は「無になる」「死は自然、運命だ。あらがっても仕方がない」と言います。この自然死の考え方に対して「死」は異常なのだと小畑進師は異をとなえるのです。

「けれども、はたして『死』は言われるように『自然』のこと、不問の事だったのでしょうか。人間は、太陽が朝のぼり、夕べには沈むの見ても、少しも異としないのに、人が生まれて死ぬ時には、あるべからざることと感じ、とりかえしのつかない苦痛を覚えるのはどうしてでしょう。この苦痛は、本来死ぬべからざるものが死ぬということの、あらわれなのではありませんか。死が異常であることのしるしなのではありませんか」(東京基督教大学教授。小畑進師「キリスト教慶弔学辞典」p219)三人称の死に直面しても「死」に対して恐れを持たないのに二人称または一人称、自分の死に直面すると平常心だった時と違い、たちまち恐怖を自覚するのはどうしてでしょうか。自分が病気になったり、怪我したりすると「ひょとすると死んでしまうかも」と心に苦痛を覚えるのはどうしてでしょうか。私の母は小学校6年生の時、「がん」で48歳の若さで4人の子どもと夫を残して「名古屋ガンセンター」の個室で息を引き取りました。そこで全員、涙で泣き崩れたのを今も鮮明に覚えています。「なぜ母は死んだのか」と問い続けても答えは出ませんでした。がん告知を受けたある患者が「なぜ私だけがこんな苦しい目にあうのか」と気が狂わんばかりになりました。このように死は「自然よ」と言い切れないのです。「日本人は、明るい面、あるいは華やかな面のみに注意を向け、暗い面から目をそむけるという傾向がある。つまりきちんとしたかたちで死と対決しようとせず、どちらかといえば、逃げようとする」(自治医大教授。平山正美師「死生学とはなにか」p322)

 

 2.死とは何か

朝、花を咲かせても 移ろい 夕べには しおれて枯れています。私たちはあなたの御怒りによって消え失せ あなたの憤りにおじまどいます。あなたは私たちの咎(とが)を御前に 私たちの秘め事を 御顔の光の中に置かれます。私たちのすべての日は あなたの激しい怒りの中に消え去り 私たちは 自分の齢(よわい)を一息のように終わらせます。私たちの齢(よわい)は70年。健やかであっても80年。そのほとんどは 労苦とわざわいです。瞬く間に時は過ぎ 私たちは飛び去るのです詩篇90篇6-10節。

朝露のように短い一生で「私たちの咎(とが)」というのは「すべての人間の罪」を言い、それは聖なる神を認めない、聖なる神様と交わらないで自分中心に生きることを言います。この神様への背きの罪が招いた結果として死があるのです。

罪の報酬は死です」と聖書は語り、同時に「死」を超える「永遠のいのち」を示します。

 

3.死の解決イエスキリスト

しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです

ローマ人への手紙6章23節。

キリストにある永遠のいのちとはキリストの復活の命なのです。それは死人から肉体の復活をした主イエスキリストを信じる信仰によってよみがえらされ、与えられたいのちを言うのです。イエス・キリストだけが十字架で死なれ墓に葬られて3日後に復活しました。キリストは言われました。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。ヨハネ11章25節。あなたが死の恐れから解放されるために次の事をして下さい。第一に、聖なる神様に対して自分中心の罪を悲しみ告白し、第二にあなたの罪の身代わりとして十字架で血を流しつくし死なれ復活したキリストを信じて下さい。人は全員死にますが、復活の主を信じ続けた人は死後、天国で、すなわちキリストの100%慰めを受けて生きるのです。この永遠の命を自分自身が得てこそ、喜んで生きて行けるのです。

新幹線の新大阪駅から淀川方面へ目を向けると淀川キリスト教病院がある。そこに直腸癌で入院された方の手記を紹介します。

「発病以来私の心を占領していた最大の課題は、おしせまった自分の死の問題でした。夜半になると、ふっと目が覚めては死の不安におそわれ、いてもたってもいられぬ恐怖に、まんじりともしませんでした。死についての教えを手あたりしだい読みあさりました、しかしどんな名論卓越も、深遠な思想も、要するにその人の死についての単なる考えや想像や願望でしかなく、死の事実そのものではありません。死のさしせまっている私にとっては、何の力にも慰めにもなりません。

 死とはいったい何なのか?死後はどうなるのか?死を経験した者は無数にあるが、死者はもはや私に死を語ることはできない。実際に死を経験して、しかも私に死を語ってくれる者はいないか?あった! 聖書を読むと、まさにその資格を持った方がある。すなわちキリストである。キリストは私のために十字架にかかって死なれた。しかも現実によみがえり、今も私と共においでになり、語りかけていて下さる。キリストの言葉こそ信用できる。キリストだけが信頼できる唯一のお方である。死も死後の世界も私にはわからない。しかし死の勝利者、私の罪のあがない主、イエス様が私と共にいて下さる以上心配はない。万事お任せして主におすがりするばかりである。私にはこれ以外の道はなく、しかもこれほど確かな道はない」(柏木哲夫師「病める心の理解」pp200‐201)その後、神様に導かれたみ言葉は詩篇23篇であった。

主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ いこいのみぎわに伴われます。主はわたしのたましいを生き返らせ 御名のゆえに 私を義の道に導かれます。たとえ 死の陰の谷を歩むとしても 私はわざわいを恐れません。 あなたがともにおられますから あなたのむちとあなたの杖 それが私の慰めです。詩篇23:1~4