佐賀バイブルチャーチの入江喜久雄牧師のブログ

佐賀市鍋島へ引っ越しブログを再び始めました。よろしくお願いします。

なぜ、今も「塩狩峠」なのでしょうか。

この映画を上映したところ約50年前制作にもかかわらず177名の方々が来られました。2024年4月14日

 

  それは、この本には人間が生きて行くために必要な事柄の5つが書かれているからです。

さて、小説「塩狩峠」(平成23年6月15日90刷。新潮文庫)の内容に入りましょう。

永野信夫(長野政雄)は母キリスト者のもとで育ちましたが、姑のきつい態度によって母は家を出て行かなければなりませんでした。その後、信夫は父と厳格な祖母によって育てられたが、小学生の時、祖母が他界したため、母と妹が東京本郷の家に戻ってきました。

その後永野は成人し裁判所で働きましたが、幼馴染の吉川の勧めで札幌の鉄道員となりました。その吉川の妹がふじ子でした。ふじ子は肺病で片足を引きづって生活していましたが美しい人格でした。25歳を過ぎた頃、上司の名倉から縁談が信夫にありました。その相手は上司の名倉の娘でしたが、信夫はふじ子の人格とその言動に惹かれその縁談を断り、ふじ子と結婚する決断をします。

以下、作家の三浦綾子さんが「塩狩峠」で問題提起している主要な箇所を記してみました。

  1. 人間の心

「吉川君。ぼくは性欲に関する限り、決して一生自由人となることができないような気がする。幾度か、性的なあやまちを犯しそうな不安すら感ずる。君、どうか、ぼくを笑わないでくれ。そして、ぼくにこのことから自由になる道をおしえてくれないだろうか」pp158-159

性欲だけではなく、汚れた欲望からの自由を正面から取りあげています。

 

問:あなたは自分で自分をコントロールできますか

聖書の答え:できません。

内側から、人の心の中から、悪い考えが出てきます。みだらな行い、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪行、あざむき、好色、ねたみ、ののしり、高慢、おろかさで、これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」(マルコ7:21-23)

 

問:ではどうすれば自分を正しくできるのですか。

聖書:「人はだれでも、律法を行うことによっては神の前に義とみとめられないからです。律法を通して生じるのは罪の意識です。 しかし、今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。」ローマ3:20~22

 

  1. 原罪

「人間って恐ろしいものね。わたしだって時と場合によっては、ずい分やさしくもなるけれど、自分でもいやにあるほど意地悪にもなるわ」p185

「人間てね、その時その時で、自分でも思いがけないような人間に、変わってしまうこともあるのです」p187

「だれにも知られない、奥深い心の中でこそ、ほんとうに罪というものが育つのではないだろうか」p190

「それは勤勉で自制的な、そして向上しようとする自分の姿ではなく、どこまでも堕ちて行きたいような、いく分ふてぶてしい、すさんだもう一人の自分の姿であった」p264

「わたくしこそ、ほんとうに助けてもらわなければならない罪人だったのです。そして、あのよきサマリヤ人は、実に神のひとり子イエス・キリストであったと気がついたのです。それなのに、わたしくしは傲慢にも、神の子の地位に自分を置き、友人を見下していたのでした。いかに神を認めないということが、大いなる罪であるかをわたくしは体験しました」

PP364‐365.

多くの人が見過ごす原罪を明確に描いています。

問:原罪とは。罪の普遍性とは。

聖書の答え:「私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって

行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた」イザヤ53:6.

 

私たちはみな、汚れた者のようになり、その義はみな、不潔な衣のようです。

私たちはみな、木の葉のように枯れ、その咎(とが)は風のように私たちを

吹きあげます」イザヤ64:6

問:あなたの心はどうですか。

人を憎んだり、見下したりする心を直視したことがありますか

その心を変えて下さる聖書のみ言葉

聖書:

すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」マタイ11章28節。

御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめてくださいます。」1ヨハネ1章7節。

「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」2コリント5章17節。

 

  1. 自分の存在

「(あの雲のように、自分もまた、どこから来てどこへ行くのかわからないのだ)信夫はそんなことを思うと、ひどく寂しかった。何の目的もなく流れている雲と、何の目的もなくこの人生をさすらっているような自分が、あまりにも同じように思えてならない。何だか生きていることがむなしいような気がしてきた。」p263

人生の本当の目的を見いだせない心を描いています。

 

問:あなたは人生の本当の目的を見出しましたか?

あなたはどこから来てどこへ行きますか?これは人間にとって最も重要な

質問なのです。

どこから来たのかが分からなければ、私たちがなぜ存在し、

どこへ行くのかもわかりません。

コーヒーカップはコーヒーを飲むために造られました。

では人間は何のためにつくられたのでしょうか。自分は何の目的につくられたのでしょうか。何をするために生まれたのでしょうか?自転車に設計者、造った方がいるように、人間を、あなたをお造りになった方がおられるのです。その方に聞いてみる以外にありません。その方を書いているのが聖書なのです。それだけではありません。人間がどのように生きるのかが書いてあるのです。

人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」と書いてある。」マタイ4:4

すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです。この神に、栄光がとこしえにありますように。」ローマ11:36

キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。

2コリント5:15

 

  1. 死の問題

「(おれもおばあさまや、おとうさまのように、何時とも知らぬ時、突然死んでしまうのではないだろうか)信夫は恐怖した。父の死の寸前まで、信夫の心を占めていたのは性欲の問題であった。しかし今、信夫にとって最も大いなる問題は死となってしまった。・・・

(これは生きている手だ)と信夫は思った。しかしこの手が、いつか冷たくなり、もはや動かぬ手となることのある日を信夫は思った。信夫は親指から順に指をおり、そして開いてみた。その時、ハッキリと信夫は、人間は必ず死ぬものであることを納得した。(どうして自分が死ぬものであるというこの人生の一大事を、今まで確かに知ることができなかったのだろう。)p169 と納得。

 

問:あなたは人生の一大事である自分が死ぬ存在であることを意識していますか。

答え:

ちょうど、一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がったのと同様に」ローマ5:12

罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」ローマ6:23

エスは彼女に言われた。『わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。このことを信じますか。』彼女はイエスに言った。『はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております』」ヨハネ11:25-27

 

 

  1. 人格の尊さ

「ふじ子さん、人間にとって一番大事なものは、体だと思うんですか。ぼくはそうは思いません。ぼくには体よりも心のほうが大事です。」「ありがとう・・でも・・」「何がでもなんです。人間が人間であることのしるしは、その人格にあるはずですよ。手がなくても、目がなくても、口がきけなくても、人間としての大事な心さえ立派であれば、それが立派な人間と言えるのじゃないですか。病気のことなど決して卑下してはいけませんよ。あなたにはだれにも真似のできないやさしや、純真さがあるのですからね」信夫は熱心に言った。」pp349-350.

問:あなたは人格の美しさとは何でしょうか。

聖書の答え:それは神の霊(聖霊、御霊)がキリストを信じる人(ヨハネ7:37~39a「エスは立ち上がり、大きな声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。』に降ると人格が美しくなります。

 

問:どのように人格が美しくなるのですか?

聖書の答え:以下の御霊の実を結びます。

御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」

ガラテヤ5:22‐23

 

塩狩峠」の続き。・・・・

明日の結納のために旭川から札幌に行く途中、「塩狩峠」で大変なことが起こりました。友人も、東京の知人も乗った客車が機関車から外れ、急こう配を下ったのです。

曲がりカーブがいくつもある手前までハンドブレーキで止めるが止まらないのです。このままだと乗客が死んでしまうかもしれないと思った永野信夫は自分の身を投げ出しました。すると列車が止まったのです。ただ、そこには真っ白な雪に真っ赤な鮮血が飛び散っていたのです。永野信夫が死んだ知らせがすぐに吉川からふじ子のもとに届き、呆然と立ち尽くすふじ子でした。その後、教会で葬儀が行われました。当時、永野信夫の死は大きく知らされ、反響を呼びました。四十九日が終わり、吉川とふじ子は永野信夫が死んだ場所に行き花を手向けました。そこでふじ子は線路に伏せ泣いたのでした。

 

 確かにこの小説はキリスト信仰による人格が特徴です。また人の心を変えた聖書のみ言葉が随所にちりばめられています。永野の死は確かに感動を与えますが、登場人物の心の葛藤、心の有様を深く描いている箇所は見逃せません。人は「みな罪びと」と、その罪の身代わりに十字架で死なれ三日後に復活したキリストを信じる信仰者とその心が描かれています。この信仰から永野の列車での「犠牲の死」が浮かんで来ます。誰もが生きたい、何のために生きるのかと問います。その前に生きる原動力、人を変えるキリストご自身が浮かび上がって来ます。

ここまで隣人愛を与えてくださる聖であり、愛なるキリストが存在したからこそ、永野信夫は列車に飛び込むことができました。

さて、作家三浦綾子はなぜ、この小説を書いたのでしょうか。

三浦綾子氏は旭川六条教会員であり、同じ教会員に「長野政雄」氏がいました。藤原栄吉氏から彼の生涯の話を聞き「わたしは長野政雄氏の信仰のすばらしさに叩きのめされたような気がした。深く激しい感動であった。『そうか、こんな信仰の先輩が、わたしたたちの教会に、現実に生きておられたのか』」と「あとがき」p441に記しています。

「信仰のすばらしさ」に感動し「塩狩峠」を三浦綾子氏は書いたと私は知りました。

同時に三浦綾子氏のキリスト信仰がここに描かれています。「ヤソ教」の誤解偏見を説く努力が随所にみられます。その信仰とは人には原罪があり、その原罪をすべて身に引き受けて死んだ罪なきキリストに対してもつものです。罪の償いがキリストにあります。そして復活したキリストが主を信仰する人へ罪のゆるしを適用して下さり「あなたの罪はゆるされた」と言われるのです。この救いは過去の罪のゆるしだけではなく、神と人を愛する人間へと変えてゆきます。すなわち、生ける神様と交わりの回復、家族、友人、知人との平和の回復へ変えて行くのです。

 あなたも聖書からキリストご自身をぜひ知って行きましょう。ご連絡を「佐賀バイブルチャーチ」のホームページから下さいますように。

(佐賀三浦綾子読書会 世話人 入江 喜久雄)

佐賀平野は2毛作で小麦が収穫され6月末から田植えが始まります。(鍋島から)

 

「むなしさから喜びの心に変えるイエス・キリスト」

 私は「むなしいなぁ。何のために生きればよいのだろうか」と青年期に悩んでいた時、友人から「教会へ行ったらいいよ」と言われプロテスタントキリスト教会の礼拝に始めて出席しました。そこで語られた「キリストは罪がなく口で偽りを語ったこともありませんでしたが、十字架で血を流しつくし殺されてしまいました。しかし三日後に墓から新しい肉体で復活し今も生きているのです」の言葉が心に残りました。  

その時、大学に行きつつも知人にさんざん裏切られ虚無的な毎日を過ごしていた私はこのイエスキリストだけは裏切らないお方だろうと考えて信じてみようと思いました。

その後、教会と聖書から自分自身が神を信じないで自分中心に生きて来た罪を悔い改めて、自分の罪の身代わりとなって死なれ復活したキリストを心に信じました。キリストに「私を助けて下さい。救って下さい」と祈りました。引き続き教会で賛美歌を歌い、聖書のみ言葉の解説を聞くたびにキリストはむなしい心を喜びの心に変えて下さり「生きていて良かった。神様は生きておられる。今日も神様に生かされている」と喜びが続いています。その後、洗礼を受けキリスト信者となりました。また牧師、伝道師となるべく神学校へ行き卒業、結婚し3人の子どもが与えられて今に至っています。このようにイエスキリストは私の心と生き方を変えてくださいました。

 

3月の素敵な佐賀平野(鍋島)は小麦がすくすく成長していました。北に目を向けると背振山脈が見えます。その向こうは福岡県です。


水野源三さんも主によって喜びの心に変えられて、次のように言っています。「キリストの御愛にふれたその時に キリストの御愛にふれたその時に 私の心は変わりました。憎しみも恨みも 霧のように消え去りました」水野さんは小学4年生の時、脳性麻痺のために身体の自由を全く失い、30歳でキリストを信じ受洗しました。彼はまばたきで自分の意志を母親が示す50音図に現わし詩を書いたのです。

聖書に登場する人々も同様にキリストは変えられました。漁師や資産家や学者の男性たち、5回の離婚経験した女性など、またかつてユダ教徒だった使徒パウロも心が変えられて「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているのは、私を愛し、私のためにご自分を与えて下さった、神の御子を信じる信仰によるのです」(聖書)と言いました。素晴らしい喜びの知らせです。あなたもキリストは聖書のみ言葉によって変えて喜びの人生へとしてくださいます。どうぞ、お気軽に礼拝へいらして下さい。

「そのなすことはすべて栄える」2024年となるために

詩篇1篇 「実を結ぶ新年」「そのなすことはすべて栄える」 2024/1/1

 京都の嵐山に行った時、観光用の人力車を見ました。若い男性が握り棒を握って観光客を後ろの座席にのせて軽快に走っているのを見ました。さて、次の言葉があります。

 「人力車の主は 車の握り棒を握らないと走れない」「読書論:小泉信三

とあるように人は御言葉を握らないと人生を走れないのです。

御言葉を握って生きる人こそ「幸いな人」です。

1節「幸いなことよ。悪しき者のはかりごとに歩まず 罪人の道に立たず あざける者の座に着かない人」ここに3つをしない人が出てきます。

  • 悪しき者(犯罪人ではなく神に従わない人)の計画、前もって考えた計画。うまくいくように、人をだます計画、狭義(戦闘の計画)一緒に歩かない。
  • 罪人(道を外れている人)の道にたたない。その道に一緒に立たない。
  • あざける者(面と向かってけいべつする言葉、態度を見せる)の座に着かない。一緒に座らない。 これらすべて習慣的な動作でした。このように消極的に語り2節で積極的に語ります。

 

2節

「主のおしえを喜びとし 昼も夜も そのおしえを口ずさむ」「喜びとする」は「粘着する。固執する。」に意味があり、1節の悪者たちのただ中で、幸いな人は心の中まで御言葉を至らせます。それは鳩のうめき声のように。(さとし)昼も夜も、その教えを口ずさむ

(静かに思う。瞑想する)つぶやく、うめく、黙想する。瞑想するのです。

イギリス国教会の聖書学者であったW・H・グリフス・トマスは

「み言葉に耳を傾ける。注意する。傾聴する、注意を払う、さらに注意を払って読む。目的をもって読むこと。」と言っています。夢うつつ想像することではなく神の導き、慰め、助言、忠告のかたち、現実に語り掛けてくださる神の御声を聞くのです。

「①からだに聖書がしみこみ、②心が聖なる思いにひたり、③心が聖なる感動に満たされ④記憶が聖なる連想に満たされる」

マシュー・ヘンリー「黙想において心がみことばを吸収し、自分のいのちの一部とする。

心の瞑想とは願い、受け入れ、降伏し明け渡し、愛する。心が真に信じるところのものを、愛と喜びを持って受取り、それをマスターし、いのちを支配させる。知性は養われる糧を集めそのなえる。瞑想において、心はそれを取って食べる。聖句暗唱です。

昼も夜も そのおしえを思い巡らす・口ずさむ人。

 

3節.その人は価値があり移植された木にたとえられます。「その人は 流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び その葉は枯れず そのなすことはすべて栄える

私は夫婦で松原湖のほとりをあるいていると青い葉が生い茂っている大きな木に出会いました。その木の根を見ると湖の水辺に浸っていました。そこに水の流れがありました。

流れのほとりに植えられた木(自然に生え出た木ではない)どこからか持ってきた木、植えられた木 。時が来ると実を結び。その葉は枯れない。そのなすことはすべてさかえる。

(成功する)と訳せます。日常生活の自分が教会で御言葉を聞く自分へと移動します。さらにそのみ言葉を口ずさむ自分になることが「流れのほとりに植えられた木」なのです。その木は成長し実がなり葉が枯れない。そのような木はないが木をたとえとしています。なぜ木にたとえたのか。人ではなく神が育てるからです。

使徒1:16「兄弟たち。イエスを捕らえた者たちを手引きしたユダについては、聖霊ダビデの口を通して前もって語った聖書のことばが実現しなければなりませんでした」とあるように聖書の御言葉は聖霊が働いて記されたのです。信仰持って御言葉を口ずさむ人には聖霊が働き「なすことはすべて栄える」のです。使徒10:44「ペテロがなおもこれらのことを話し続けていると、みことばを聞いていたすべての人々に、聖霊が下った」これらの聖書箇所から御言葉を口ずさみ、そのみ言葉を行う人は「なすことはすべて栄える」のです。聖霊が強く働くからです。しかし、

 

4節.悪しき者は最も重要なみことばがない。まさしく 風が吹き飛ばすもみがらです。「悪しき者は そうではない。まさしく 風が吹き飛ばすもみ殻だ」だから恐れてはならない。悪しき者の外見は素晴らしいが中身はない。もみがらは種がない。風邪が吹き飛ばすもみがら。中身がなく飛んでいく存在。

 

5節.「それゆえ 悪しき者はさばきに 罪人は正しい者の集いに立ちえない。」礼拝に立ち6節「まことに 正しい者の道は主が知っておられ、悪しき者の道は滅びる

だから、私たちは悪しき者たちの中にいながら、御言葉を口ずさみ行いましょう。そこには人の力をはるかに超えた神である聖霊の働きがあるのです。

 

「主のおしえを喜びとし 昼も夜も そのおしえを口ずさむ」その人は 流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び その葉は枯れず そのなすことはすべて栄える

詩篇1:2~3

クリスマスはどのような意味があるのでしょうか。

今年こそ、心に残るクリスマスを          2023/クリスマス

               佐賀バイブルチャーチ 牧師 入江 喜久雄

 

世界中の人々が共に祝い、喜ぶクリスマスがもうすぐやってきます。クリスマスの色々な過ごし方があるでしょう。ある人にとってはクリスマスツリーをかざりケーキを食べて祝う時、また、ある人にとっては二人でロマンチックな時を過ごす日、子どもたちにとってはプレゼントをいただく時、ほんとうに楽しいです。1年の終わり、自分の人生がどんなに暗く、つらくても楽しめるクリスマスが来るのは本当に幸いです。

楽しさだけではありません。もっと深い意味がクリスマスにはあるのをご存知でしょうか。

聖書には次のように記されています。「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」マタイの福音書1章21節。

 人間、私、あなたの心の中をのぞいてみましょう。「人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、おろかさであり、これらの悪はみな、内側からでて、人を汚すのです。」(聖書)。そもそも、このような人間になったのは、「神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました」聖書とあるように、聖書の神様から離れてしまったからです。これは人間の力ではどうすることもできません。自分の力、知恵によって自分を造り変えることはできないのです。

この人間の本質を新しく造りかえてくださるために来られたのがイエスキリストなのです。このお方は何をされたのでしょうか。一言で言えば罪がないにもかかわらず、十字架にはりつけにされ殺されたのです。しかし、三日後に肉体を持って死から復活されたのです。なぜ、イエス・キリストは十字架の受難の道をあゆまれたのでしょうか。

彼は私たちのそむきの罪のために刺し通され」(聖書)とあります。そうです。ひとりひとりの罪の身代わりに十字架にかかり死なれ、死に勝利し復活されたのです。なんと素晴らしい方でしょうか。このお方こそ、すべての人にとって希望なのです。

 

このお方を自分の罪の救い主として、罪を告白して信じた伝道者パウロは生ける神を発見し、歓喜の叫びをしました。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(聖書)

クリスマスの主人公であるキリストはあなた、わたしを罪から解放し新しい人としてくださるのです。この楽しいクリスマスをご一緒にお祝いしましょう。

処女マリアに聖霊によって宿ったキリスト

 1.マリアの胎にいたキリストは罪から救う救い主だった。

場所は首都エルサレムから遠く離れた北上約90キロ地点にある「ガリラヤ丘陵地の盆地」にある町、ガリラヤのナザレでした。そこに婚約中のマリヤがいた。彼女に神の恵みが及んだ。メッセージは「おめでとう。恵まれた方、主があなたと共におられます」と神の恵みが彼女に及んだのでした。マリアは突然の出来事に何が起こったのかわからず、「この言葉に戸惑って、これはいったい何の挨拶かと考え込んだ」のです。そのマリアにみ使いはさらに神からのメッセージを加えて救い主の誕生を知らせます。「恐れることはありません。マリア。アナタは神からの恵みを受けたのです。」神からの恵みとは何でしょうか。その恵みとは人であった。なぜなら人間は人間によって満足するからです。同じように人間は人間によって救いと平安を得る。ハイデルベルグ問35の答え。ご自身もまたダビデのまことの子孫となり、罪を別にしてはすべての点で兄弟たちと同じようになるためでした。

しかも、その人の内容は31節「御覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。」イエスとはどのような意味でしょうか。「主は救い」このお方は救いそのものであった。マタイ1:21「この方こそ、ご自分の民をその罪から救って下さる方です。」的外れの人生から的を射る人生、神様と人を愛する人へと変えて下さるお方、なんと素晴らしいお名前でしょうか。今も、このお方がおられるのです。ハイデルベルグ問36

「罪のうちにはらまれたわたしのその罪を神の御顔の前で覆ってくださる」

2.マリアの胎にいたキリストは世界の王であった。

「その王国はとこしえで、その支配におわりがない。」ルカ1:3233

 マリヤは処女でした。そこに生まれるとはイエス聖霊があなたの上に臨みいと高き方の力があなたをおおうからです。それゆえ生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。」からです。処女降誕のキリストは「人間性をきよめ、罪の汚れから完全に守られた」罪なき人」を表しています。生まれる者は聖なる者とここに罪なき人の裏付けがあります。さらにこのお方は

神の子」と呼ばれます。これは神様が人間の姿を取って来たので、このような表現を使用したというよりも、これは「メシヤ」王様として支配する意味があります。十字架の罪の贖いは祭司的な働き、王様というのは神の民を霊的敵から救い出し、愛と平和の世界的王国を確立するお方です。王様は敵に勝利する方です。いと高き方の子であり、父ダビデの王位をお与えになりとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。今も王権を持っておられます。ヤコブの家を治めるお方、神の民を治め続けておられるお方なのです。

ウエストミンスター大教理問答(1647年英国国会へ宗教家会議によって提出された。)

問45「キリストは、どのように王の職務を果たされるか

答え。「・・・彼らを罪のために正すこと、彼らのすべての誘惑と苦難の下で彼らを守り支えること。(イザヤ63:9)彼らのすべての敵を抑制し制服すること(1コリント15:25すべての敵をその足の下に置くまで、キリストは王として納めることになっているからです)。ご自身の栄光と彼らの益の(ローマ8:28)ためにすべての事柄を力強く統御すること。また神を認めず福音に従わないその他の人々に報復することによって、王の職務を果たされる

3.マリヤの謙遜。

 なぜ、マリヤが神様によって選ばれたのでしょうか。マリヤの38節の御言葉から彼女の信仰がわかり、主の前に身を低くしたから選ばれたと考えられます。

み使いは1:37「神様にとって不可能なことは一つもありません。」と念押しました。特に人が生まれる、主によって救われる人が起こる。不可能なことが神様にとって可能となる。神様ならできる。人には出来ないが神様にできないことはない。特に人の救いと弟子化、成長、これらについてマリヤはどのように応答したのでしょうか。

ほんとうに主のはしためです。」彼女は夫になるヨセフの前と共にまず、

アドベント1週の主日、鍋島にある教会の前のいちょうが美しい黄色に色づきました。


主の御前で生きる人でした。このような方が恵みを受ける。はしためとは「よその家の家事手伝いに雇われていた女性」の意味から主の家で主のために生きる人を表しているのです。彼女は「どうぞ、この身になりますように」と信じ願いを込めている。「御言葉通り生きます」と言い切らなかった。なぜでしょうか。頑張れない自分をマリアは知っていたからです。そこで御言葉どおりに自分の身になりますようにと神様に頼るのです。

私たちもこの祈りを、聖なる者、神の子の力が力強く働き、わたしに及びこのクリスマスシーズンに「彼はとこしえにヤコブの家を治め、その終わりはありません」と不可能が可能となるようにマリアのように願いましょう。

 

あなたには価値がある。「あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています」ルカ12:7a

研修会への途上、夫婦で美しい琵琶湖を見ました。


5羽の雀が、2アサリオンで売られているではありませんか。そんな雀の1羽でも、神の目の前では忘れられてはいません。」ルカ12:6。

当時は、2羽で1アサリオン、4羽で2アサリオンでした。ですから5羽なら3アサリオンのはずです。しかし、5羽で2アサリオンということは。1羽はおまけということで、1羽の雀は価値の少ないものでした。この価値のないような雀一羽でさえもイエス・キリストには忘れられてはいないのです。さらに神様は弟子たちの髪の毛の数を数えるほど私たちを知っておられるのです。

これは「多くの雀」と「あなたがたの髪の毛」と比べて何を語っているのでしょうか。それは「神の配慮(心配り)の偉大さ」を語っています。

スズメとあなた、私の頭の毛についての観察は、神の摂理(この御業とは、神が、最もきよく、賢く、力強く、すべての被造物とそのあらゆる動きを保ち、治めておられることです。ウエストミンスター小教理問11の答え)が人生の細部にまで及んでいることを示しています。「もし小さなスズメに対する神の摂理が真実なら、より価値がある弟子たちへの神の摂理はどれほど真実なのでしょうか。」

つまり、イエス・キリストが、おまけであるスズメ1羽にさえ気を配るなら、弟子たちの「髪の毛さえも」気を配るというのは、一人一人に対する主の配慮の真実がどれほど

偉大かを示しています。しかも、「数えられています。」と書かれています。

「数えられています。」はどのような意味でしょうか。それは髪の毛一本一本が私たちの頭にあるように、私たちのどんな小さな働きも主が一つ一つ数えて覚えておられるということなのです。たとえば、相手を思いながら益になる言葉をさがしてメールの文字にして送信したり、心砕いて電話のことばを語ったりする小さな働きを、人が知らなくても主は知り数えておられるのです。イエス・キリストはそれほど弟子たち、私たちを知っておられるのです。人知れず心を用いて行う主の奉仕を、働きを主は数えておられるのです。

おまけの雀1羽でさえ「神の御前で忘れられていない。」ルカ12:6

さらに、あなたがたに対して神は髪の毛さえもすべて数えられるほど、生活の小さなところまであなたに心を配っておられます。だからあなたには価値があるのです。弟子たちは恐れることはありません。パリサイ人たち、反対者たちから弟子たちをイエス・キリストは助けて下さるのです。

そして、小さな働き、告白「だれでも人々の前でわたしを認めるなら、人の子もまた、神のみ使いたちの前でその人を認めます。」ルカ12:8という恵みが続くのです。

人生で最も重要なのは信仰告白

すばらしい佐賀平野は稲刈りがまもなくです。夫婦で見ました。

人はうわべを見るが、主は心を見る。」(1サムエル16:7b)は少年ダビデ預言者サムエルが8人の兄弟の中から選んだ時のみ言葉でした。ここに神様は心を、心で何を考え口で何を告白するのかを重要視しています。ダビデは後にイスラエルの王として40年間、国を統治しました。その40年間で詩篇89篇の作者は26節で「彼は わたしを呼ぶ。『あなたはわが父 わが神 わが救いの岩』」とダビデ信仰告白を記しました。

ダビデ王は人生で数々の戦いに勝利しました。また誘惑に負けることもありましたが、この詩篇では彼の人生で最も大切な一つを記しています。それは彼の信仰告白だったのです。

 まず詩人はダビデ契約(サムエル7:11)を語った神様に対して「わたしを呼ぶ」と語ります。ここに人間の本来の生があります。それは衣食住と身体にいのちを与えて下さる神様を人が「呼ぶ」ことなのです。これこそキリストが言われた「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」(マタイ4:4)生き方なのです。人は神のみ言葉を聞いて応答する。その応答が「わたしを呼ぶ」事なのです。苦しい時に呼び、叫び、受けとめて下さる方がここにおられるのです。

つぎにダビデは「あなたはわが父」と呼び求めています。「わが父」とは父なる神様に養子となった自分を現わしています。また「わが父」はダビデ自身の父親であるエッサイの人柄を思い出した言葉ではなく、ダビデ契約を与えた方に対してであると文脈から読み取れます。

それは詩篇892835までの文章の論の展開がサムエル7:11‐16と全く同じだからです。ここから学ぶ内容は人が神様を呼ぶ時、ダビデ契約を信じて呼ぶことが大切だという事です。

さらにダビデは「わが神 わが救いの岩」と呼んでいます。「わが神」は「無から有を造り出し、しかも統治する力、全能者であって主権者であるという意味が」あります。また「わが救いの岩」は救いにおいて、ゆるがない、堅固なお方です。救いは罪の赦し、解放だけではなく聖化を現わしています。ダビデにとって毎日の霊的戦い、誘惑に対して勝利を必ず与えて下さる神様、助けが何もない状態から多くの助け、働き人を与えて下さる神様です。それは私たちにとっても同じです。

 結論:私たちも「あなたはわが父 わが神 わが救いの岩」と神様を呼んで、具体的に祈りにおいて、あかしにおいて信仰告白を実践しましょう。主が一番喜ばれ、人生で最も重要な事柄だからです。主に祈りましょう。

(佐賀バイブルチャーチの水曜祈祷会から)